「戒厳令」や「夜間外出禁止令」、ようするに「クーデター」のような状況が発生して通常の価値階層が完全に転倒し、「人権」だとか「人命」だとかが中身のないお題目と化した街路ほど映画にふさわしい舞台もない。作り手がどれほど“社会派”として高い意識を持っていても、たとえばコスタ=ガヴラスの『ミッシング』(82)に登場する軍事クーデター直後の夜道を主人公たちが駆け抜けるシーンなどのスリルには、文句なしに興奮させるものがある。そこには当然、“日常=文明”の崩壊というある種ポスト=アポカリプスものの爽快さもあるし、鬼ごっこやかくれんぼに通じる、アドレナリンを直截分泌させる原初の刺激がある。つまりは、ゾンビ映画に似ている。
そういうわけでこの映画では、のんきに家族連れで東南アジアのある国(独裁政権下にある架空の国)に赴任したアメリカ人一家が、折しも発生した“クーデター”とそれに続く“外国人排斥”にとどまらない外国人を狙い撃ちした“大虐殺”の波状攻撃をくぐり抜け逃げまどう姿を描く。災害系のパニック映画でもあるし『ダイハード』的なアクション映画でもあるという、とても基本的でお約束通り、正しくもあるけど退屈にもなりうるネタである。
実際、主人公ジャック(オーウェン・ウィルソン)たちが到着する国とその町並みはどう見てもタイだし、看板なんかはそのままタイ語のものが掲げられている。だからどう見てもコワイ感じはないし、おそらくタイ語のわかる人が見たら看板を見ただけで膝カックン、失笑してしまうだろうというくらい、ロケ地が剥き出しで使われているのだ。これがアフリカのどこかで撮影されていたとしたら最初からもっと盛り上がったのだろうが、アフリカだったら家族連れで移り住むかどうかわからないし、東南アジアだからと油断している感覚は、それはそれでリアルなものかもしれない。などと考えながらとりあえずスクリーンを眺め続けるわけだ。
ところが、新聞を買うためにホテルを出たジャックの目の前で大暴動が発生し、暴徒がそのまま外国人たちの大勢宿泊している巨大ホテルへと押し寄せ始めて見ると、たちまちのうちにそうした背景のゆるさが目に入らなくなり、あとはただひたすらジャック一家(含:妻と幼い女の子ふたり)の命運を手に汗握りながら見つめ続けることになるのだ。
こういうのが演出力というのだろう。奇をてらったことがおこなわれるわけではないが、すべてのシーンにおいて少しずつあたりまえのラインを越えてくる。ここまでやられると笑ってしまうというギリギリ手前の一点を倦むことなく攻め続ける。
次から次へと絶体絶命状況を叩き込んでくる脚本の展開もうまく機能している。なにしろ、これまで何本もの映画で見てきた、外国人、とくにアメリカ人には暴徒もなかなか手を出せず主人公たちを遠巻きにするなんていうまだるっこしい状態にはまったくならず、とにかく“外人”と見れば問答無用で殺されるのだ。“外人”のみならず“外人”のために働いている現地人も殺される。
手元に武器はない。周りにいるのは全員敵。顔から一目で外国人だとバレてしまうし、言葉もわからないから交渉もできない。そもそも交渉の余地はない。となれば最初に考えるのはアメリカのような大国の大使館に逃げ込むことだが、どこにあるのだろう? 辿りついても入れてくれるだろうか。そのうえ子どもたちの存在は逃げ足を鈍らせる。という風にわれわれの思いつくことは、ひとつひとつすべてがツブされていく。
もう鬼ごっこなどという次元ははるかに超えていて、基本的には隠れていたいところだが、そうしている限りその状況から抜け出すことはできない。だから移動をはじめると暴徒に見つかるのみならず、一片の“安全地帯”もないという、原題『NO ESCAPE(出口なし)』そのままの状態が続く。「クーデター」状況のスリルはたまらないなどと書き付けたがそれは映画の中でのこと、実際に外国を旅する際に頭をよぎる最悪の妄想がこれだろう。
もちろん現代の映画であるから、現地人をただの野蛮人と描いて終わるわけではない。先進国による悪辣な搾取の構造と、それに怒る暴徒の側の利が示されたりもするのだ。そうしたバックストーリーを体現しつつ、ジャックたちに救いの手を差し伸べるピアース・ブロスナン演じる謎の男の使い方もうまいし、なによりカッコ良かった。
そういうわけで、意外な掘り出し物であるこの映画自体が、ハリウッド・メジャーに比べたら圧倒的に少ないに違いない予算規模にもかかわらず、最後まで暴徒のように押し寄せ、楽しませてくれるのであった。
公開情報
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9月5日(土)新宿バルト9他全国ロードショー!
配給:クロックワークス