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凡人のしあわせ

エドワード・ズウィック『完全なるチェックメイト』

文=

updated 12.24.2015

映画でも小説でもとにかくホラーというジャンルが好きなだけで、たとえば指圧を受けようと路地裏に立つ小汚い雑居ビルの三階に上がり、扉を開けてひと気のない部屋に足を踏み入れた瞬間には、いくつもの可能性が頭を過ぎる。カーテンで仕切られた空間の向こう側で、誰かが息をひそめているのではないか。今この瞬間にも頭のおかしい指圧師が帰ってきて、後ろ手に鍵をかけるのではないか。それともカーテンの向こうには死体が転がっていて、今さっき一階ですれちがった男が犯人だったのではないか。そういえばすれ違ったときにちらりと目が合ったけれども、そのせいで不安になった男が引き返してきて、いまにも扉を開けて入ってくるのではないか。ならばその前に内側から鍵をかけてしまわなければいけない。とほんの数秒の間に考えていると、「いらっしゃい」といかにも柔道整体師らしい体つきの白衣を着たオヤジが出てくるわけだが、それでもまだ警戒を解くことができなかったりする。

ホラーが好きというだけでこれなのだから、指された一手に対して150手先までが見えてしまうというボビー・フィッシャー級のチェス・プレイヤーが、強迫観念に取り憑かれるのも充分に理解できるというものだ。ましてやフィッシャーの母親は、共産主義者として実際にFBIの監視下に置かれていたというのだから、ムリもない。

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映画は、1972年にアイスランドの首都レイキャヴィクで行われた世界選手権において、ソ連のチャンピオン、ボリス・スパスキー(リーヴ・シュレイバー)との対局を前にして、精神の均衡を失いつつあるボビー・フィッシャー(トビー・マグワイア)の様子を映し出すところから、幕を開く。

そう、フィッシャーは幼少期からわかりやすい天才少年で、あまりに落ち着きのない弟に姉が買い与えた、安物のチェス・セットが彼のチェス人生の出発点となった。若くしてチェスで頭角を現してからも幾度となく引退と復帰を繰り返し、2008年にレイキャヴィクで亡くなるまで、アメリカ国籍を剥奪されたり、日本で拘束されたりと普通ではない人生を送った。基本的に態度は悪く、後先考えない自信家で過大な要求をし、暴言を吐きまくったりどこまで信じているのかわからない陰謀論をがなり立てたり、という人物だったらしい。

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物語は主に、1962年にカリフォルニアで開かれた親善大会でのスパスキーとの対局と、1972年の雪辱戦に焦点を絞る。その過程では、上述のような“奇行”が存分に描かれるが、トビー・マグワイアによって演じられるフィッシャーというキャラクターには、まんまと繊細な青年らしい魅力が宿っていて、その彼を眺める観客もまたいつのまにか、彼のパラノイアをいくばくか共有している自分に気づくだろう。

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興味深いのは、あたかもフィッシャーに感染させられたかのように、スパスキーの方もまた対局中に病的妄想としか思えない物言いをつけるというシーンで、それを受けて主催者側が綿密な“検査”を行った結果、彼の訴えは裏付けられなかったものの、もしかすると研ぎ澄まされすぎた神経が捉えていたのはこれではないのか? というあるものが発見されることだ。

ことほどさように、幼年期のフィッシャー家を取り巻いていたFBIによる監視、フィッシャーの代理人を務める弁護士のポール・マーシャル(マイケル・スタールバーグ)が漏らすCIAエージェント風の発言、そしてもちろんすべての背景にある世界情勢などなど、妄想と現実の境目を曖昧にする要素が次々と挿し込まれていく。もちろん、それが冷戦期の空気そのもの、ということでもあるのだろう。

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決して共感できる人物ではないが、たしかに“異能の天才”を眺める楽しみはある。そしておきまりの、「あんなに頭が良くなくてよかった」という凡人のしあわせを嚙みしめることもできる。いずれにせよ、出演陣から脚本、演出にいたるまで、手堅く、隙無く作られた作品である。

公開情報

(C) 2014 Lions Gate Entertainment Inc. All Rights Reserved. Photo Credit: Tony Rivetti Jr.
12月25日(金)TOHOシネマズ シャンテ 他 全国順次ロードショー
公式HP: GAGA.NE.JP/CHECKMATE