Straight Outta Compton

“その後”を生き抜く

F・ゲイリー・グレイ
『ストレイト・アウタ・コンプトン』

文=

updated 12.17.2015

高校時代から聴いてきたのは主に“洋楽”なのに、なんとなくヒップホップは避けてきた。その理由については長谷川町蔵×大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門』(アルテスパブリッシング)が教えてくれたのだが、それとはおそらく無関係に、どういうわけか中年になってからポツリポツリとヒップホップを聴くようになっていた。

時代や系譜、出身地に関係なく聴いているので、一向に体系的なヒップホップ像が自分の中で結ばれないが、実はとても素朴に、彼らの発しているメッセージに鼓舞される気持ちがあって、個々の楽曲やアーティストに惹き寄せられているという自覚もある。最近では、朝、ケンドリック・ラマーの「i」に首筋を引っぱり上げられるようにして仕事に向かうことが多い。「28歳の若造が編む言葉にアゲられてていいのか」と感じることもなく、素直に昂揚する。それ自体が、中年期に入ったということの証左でもあるのだろう。そのケンドリック・ラマーもまたコンプトン出身で、ドクター・ドレーに繋がっていることは、この映画を見た後で知った。

そんなていたらくなので、N.W.Aの活動していた80年代後半にはうっすらその名前を知っている程度の高校生で、クラスにも聴いている者は(たぶん)いなかった。92年の「ロス暴動」のときには、警官に殴打されていた黒人よりも、韓国人商店を襲う連中を捉えた映像の方が強烈で、“抑圧されていた黒人”への共感はほとんど覚えなかった。その感覚が以降まであとを引きずり、「ギャングスタ・ラップ」という呼称も含めてヒップホップ的なものをすべて遠ざけてきたということもあると思う。

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さて、この映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』だが、ドクター・ドレーとアイス・キューブという当事者たちが製作に名を連ねているにもかかわらず、ここで語られている物語はおどろくほどストレートで、“公式的な伝記映画”のお仕着せ感はない。

ひとりはホンモノの元ドラッグ・ディーラー(イージー・E)、ひとりは音楽オタク(ドクター・ドレー)、ひとりは言葉の才人(アイス・キューブ)という三人を中心としたN.W.Aというグループがどのようにして成立し、作品を生み出し、それが圧倒的なポピュラリティーを獲得し、“社会現象”と化していったのか。同時に、人間としての彼らがどのように結ばれ合い、その関係がいかにして沸点を迎えたあとで瓦解し、和解のときが訪れたのか。露悪や強がり、美化を極力排しながら、その力学が丁寧に描かれる。実際にどうだったのかということよりも、そう感じさせる語り口であり見せ方であることが重要だろう。そのうえで音が鳴り、言葉が発せられるわけで、鳥肌の立たないわけがない。

アイス・キューブを演じる息子のオシェイ・ジャクソン・Jrはオヤジそっくりだし(実はオヤジの若い頃よりもちょっとだけワルそうに見えるのがミソ)、ふとした瞬間に若い頃のデンゼル・ワシントンを思わせるドクター・ドレー役のコーリー・ホーキンスは強烈な磁力を放っている。イージー・E役のジェイソン・ミッチェルにもまた、ホンモノのチンピラだけが持つヤスさとラフさの入り交じったリアルな感触がある。

たとえばこんなシーンがある。ある日、アイス・キューブがスクール・バスに乗っていると、傍らをストリート・ギャングの乗ったオープンカーが走り抜ける。それを見た一人の生徒が、窓を開けて彼らをはやし立てる。するとギャングたちはバスをむりやり停止させ、銃を抜いて乗り込んでくる。そしてひとしきりはやし立てた少年を脅し上げたあと、「ギャングなんかになるな。勉強して立派な人間になれ」というような意味の言葉を発して、立ち去る。ギャングにまつわる物語では、お馴染みといってもよい風景だろう。「なるほど、アイス・キューブはこうやって日々“ゲットーの現実”を観察し、それをリリックというかたちに昇華させていたのか」とすっきり腑に落ちる。

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その一方で、N.W.Aのメンバーたちがただ道ばたに立っていたというだけで、「(集団で立っているのだから)ギャングだろう」という理不尽な言いがかりをつけて取り締まる警官たちは、弱い者を抑圧する暴力警官という図式を体現しつつ、同時に、“ゲットーの住民”に脅えきったあわれな存在にも見えるような描き方がなされている。

そもそも、単純な成功譚ではない。彼らの神話をなぞり強化するだけの映画ではない以上、「N.W.Aは“ゲットーの現実”を体現し、人種差別や権力の横暴と闘った」という図式には収まらないのである。

つまり、N.W.Aの歩みと、彼らが体現することになったあの時代のあの場所の力場とが、おどろくほどたくみにわれわれの眼前に現出させられているにもかかわらず、彼らが勝ち取った“成功”が結果としてそのまま“黒人たちの蜂起”=「ロス暴動」に繋がったという物語=歴史ではなく、むしろ“その後(アフターマス)”を生き抜く主人公たちの姿の方にこそ、この映画の焦点は合わせられている。

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映画はまさに、ドクター・ドレーが「アフターマス(エンタテインメント)」の設立を宣言して終わるのだが、もちろんこの映画の“その後”とは、いまわれわれが生きている時空にほかならない。そして周知の通り、2015年のさまざまな出来事が示したように、われわれが生きている“その後”の世界では、「ファック・ザ・ポリス!」と叫んで解決する真に深刻な問題は一つもないのである。

公開情報

©2015 UNIVERSAL STUDIOS
12月19日(土)渋谷シネクイント、新宿バルト9ほか全国順次公開
配給: シンカ、パルコ ユニバーサル映画