「その人の身になる」というのを英語では「その人の靴を履く」と言うわけだが、この映画にはそれを文字通りに現実化する“魔法のミシン”が登場する。それを使って修理した靴を履くと、外見がその靴の持ち主そのものと化すのである。これは、“透明人間”と並んで、われわれの抱いている基本的な妄想パターンのひとつなのではないだろうか。
この映画の主人公マックス(アダム・サンドラー)のように、マンハッタンのロウワー・イーストサイドにある小さな靴修理店の四代目として凡庸かつ孤独に生きている人間にとっては、特にそうだろう。年老いた母親とのふたり暮らしで、唯一の友人は隣で床屋を営むジミー(スティーヴ・ブシェミ)という毎日を送っている彼のように、自分はどこかで人生を間違えたと痛切に感じる中年期には本来、危険でもあるが必要な妄想でもある。だがすれからした中年は、たいていの場合そんな妄想を起動させることはない。そんな妄想どころか、どんな妄想にも意味はないと思い込んでいるが故に“中年の危機”は固着し、人生全体がひたすら“誤りの塊”になってゆくという悪循環も発生するだろう。
ところがこの映画においては、マックスの家に伝わる“先祖伝来のミシン”が突如、彼自身がその存在に気づくよりも前に妄想を具現化してみせ、かわりばえのしないよどんだ日常がいきなり強烈な色彩を帯びる。中国人になってみたり、チンピラ黒人になってみたり、近所のイケメンになってみたりと、彼はささやかな冒険を続けるだろう。するべきはそんなことじゃないだろうにと、おとぎ話に典型的な歯がゆさを嚙みしめながらわれわれはその姿を見つめるが、結局彼が行き着くのは、何十年も前に失踪した父の姿となって母を喜ばせるという行為に過ぎない。
マックスは、父に捨てられたことにより自分が“敗者の人生”を送ることになったと感じている。だから、父の肉体を簒奪し母との精神的近親相姦関係に入るその倒錯した行為は、ある種の復讐でもある。しかしながら、母親に一瞬の幸福を与えることができたとしてもその場限りのものに過ぎないし、そもそもそれが彼自身の欲望ではないことに気づいていない。つまりは単純な話、マックスはおのれの欲望のありかがわからないが故に、せっかく手に入った“妄想を現実化する魔法”を、他人の人生の一場面を体験してみるという小さな万引きめいた行為以上のものに使えないでいたのである。
そのねじれかたが、マックスの人生のこじれかたと重なっていることはいうまでもない。ではどうやってそれを解消しハッピーエンドをもたらすのだろうかと、ついついこの映画がファンタジーであることもわすれてスクリーンを見つめてしまう。そこへ、欲望の権化ともいえる“悪の女王”グリーナウォルト(エレン・バーキン)が姿を現し、物語としては彼女との対決を通して万事がまるく収まることになる。荒唐無稽の次元をほんのふた目盛りほど上げて見せたそのやり口、論理的に考えても完全にアリだし、人生においてこんな妄想を忘れてはならないという気持ちにもなる。
公開情報
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6月5日(金)、TOHOシネマズ シャンテほか 全国ロードショー
配給:ロングライド