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幻影の力

ファティ・アキン
『消えた声が、その名を呼ぶ』

文=

updated 12.23.2015

時は第一次世界大戦さなかの1915年、場所はオスマン帝国(トルコ)のシリア国境近くに位置する町マルディン。ある晩、憲兵たちによってたたき起こされた鍛冶職人のナザレット(タハール・ラヒム)が、強制連行されるところから物語は動きはじめる。遠くの出来事として家族と噂し合っていた戦争の影が、ついに彼らの身に届いた瞬間だった。

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ナザレットらは、少数民族であるアルメニア人だった。キリスト教の一宗派であるアルメニア正教会の信者であり、その点でもイスラム教徒である支配階層のトルコ人とは異なる存在である。だが、経済の重要な一翼を担う人々として、一時期は帝国内での自治が議論されるような立場にあったのだという。それが、第一次大戦におけるロシアの進撃とともにアルメニア人への警戒心が高まり、迫害がおこった。その素地には、経済的に繁栄していた彼らへの反感があったのだともされる。

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映画の方では、砂漠での長く厳しい強制労働の果てに待ち受けていた処刑を、ナザレットだけが間一髪で生き延びるが、彼はその過程で声を失ってしまう。脱走兵の一団に加わり盗賊として日々を過ごしたあと故郷マルディンへ戻ると、すでに家族の姿はない。失意のままシリア側の町アレッポ(ここのところイスラム国関連のニュースでよく耳にするあの町)の石鹸工場に身を潜めているうちに戦争が終わり、ふとした折りに娘たちが生存しているとの噂を耳にする。

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そこからは、砂漠の景色を捉える小さな映画と見えていた印象を大きく裏切る展開がはじまる。遊牧民たちの隊列、各地の売春宿や孤児院などを巡るうちにレバノンへ辿り着いたナザレットは、娘たちの足跡を辿ってキューバへ、さらには、フロリダの海岸からアメリカに密入国する。だが、嫁いだ先と教えられたミネアポリスにも、娘たちの姿はない。しかたなくアルメニア人コミュニティをひとつひとつ尋ね歩く彼とともに、われわれはノース・ダコタ州にまで到達することになるだろう。

ナザレットの旅は荒れ地にはじまり、荒れ地で終わる。冒頭の暑く乾いた砂漠、ラストの寒く乾いた草原、いずれの大地もひたすら厳しい不毛の地に見える。その二つの地点の間を移動するナザレットの背中を押し続けたのは、神ではなく妻の幻影であり、娘たちの幻影であった。そして、声を失った彼にとって幻影こそが現実であることを認識させたのは、チャップリンの無声映画『キッド』(21)だった。

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トルコにおけるアルメニア人にまつわる歴史はむろん初耳だったし、そのアルメニア人とノース・ダコタ州が結びつくのも意外ではあった。そんな具合に、われわれからあまりに遠い出来事が続くのだが、『キッド』に涙するナザレットの姿はストレートに胸を衝く。ほとんど紋切り型といってもよいシーンだが、いわゆる「“映画の力”に感動させられた」というよりも、イメージそのものの持ち得る力を素朴に信じる姿勢に打たれたのである。

声を失った、つまり言葉を失った男を主人公とするこの映画そのものもまた、せせこましい細工や技巧に頼ることなく、かといって大上段に構えることもなく、ただひたすらオーソドックスに、映像の語る力によって前進してゆく。記憶の中では、あたかもワン・ショットで最初から最後までつながっていたかのような印象すらある。

正直なところ、こんなにストレートなだけでよいのかと、見ながら首をひねったものだった。首をひねりながらも、どこか拭いきれないところに染み着いているこの映画の痕跡にも気づいていた。それこそが、気の遠くなるような隔たりを挟んだ荒れ地と荒れ地とを直結させた幻影の力であり、それを封じ込めたこの作品の持ち得た力なのだと、今になって気づいた。

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公開情報

(C)Gordon Muhle/ bombero international
12/26(土)角川シネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMAほか、全国順次ロードショー
配給: ビターズ・エンド
公式HP: www.bitters.co.jp/kietakoe