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現実なのか夢なのか

クリスチャン・レヴリング『悪党に粛清を』

文=

updated 06.24.2015

その昔、『セレブレーション』(98)のために来日していたトーマス・ヴィンターベアが、「次は地平線いっぱいに拡がる大軍勢が出てくるような映画を作りたいな」という意味のことを冗談めかして漏らしていたのを覚えている。周知の通り、ヴィンターベアはいまにいたるまでそういう映画を撮っていない。おそらく、撮る気もないだろう。

同じDOGMA95の枠組みの中でクリスチャン・レヴリングが撮ったのは『キング・イズ・アライヴ』(00)で、砂漠のど真ん中で遭難したバスの乗客たちが、救援を待ちながら『リア王』を演じ続けるという映画だったらしい。らしい、というのは見たことはあるのにほとんどなにも覚えていないからだが、砂漠というDOGMA95作品にしては広がりのある舞台、廃墟、ひとかたまりの人々、ぼそぼそとしたしゃべり声といったものの印象が頭のすみに残っている。そういう意味では、砂漠の中で規模を拡大して撮られたのがこの作品『悪党に粛清を』なわけで、ヴィンターベア風にいえば「地平線を埋めつくす大軍勢」の映画が撮れたということになるのだろう。

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実際われわれは、どこまでも広がる荒野、今にも吹き飛ばされそうな開拓者の町、そこに到着し発車する機関車という、どこからどう見てもアメリカ西部そのものの景色を目にすることになる。スクリーンの細部にいたるまで過去のウェスタンへの言及が埋めつくし、その中で物語のもっとも基本的な形のひとつである復讐譚が語られるのである。どこを見てもなにかを思い出すが、モニュメント・ヴァレーにしか見えないにもかかわらず実はアフリカで撮影されたという風景が象徴しているように、それは決して記憶の中のものそのものではない。まるで、現実なのか夢なのか判然としなくなった記憶の痕跡に触れる体験のようでもある。

時は1864年、場所はアメリカ西部。退役軍人の兄弟ジョン(マッツ・ミケルセン)とピーター(ミカエル・パーシュブラント)が、デンマークから到着するジョンの妻と息子を駅で出迎えるところから物語の幕は開く。乾いた風によってひっきりなしに砂が舞い上がり、二人の顔には深い疲労が刻まれている。四人は再会を喜び合うがそれもつかの間、家族の新居となる農場へと向かう駅馬車に乗り合わせたならず者によって、妻と息子が殺される。

ひとつの復讐が次の復讐を生み、それがひとつの町全体を巻き込んでゆく。同時にその町は、さらに大きな産業構造の変化と大資本によって翻弄されているという構造が見えてくる。やがて復讐の解決が、ある時代の終わり、もしくは新しい時代の始まりに重なっていることが明らかにされるだろう。ひとことでいえばこのジャンルを非常によく勉強しているし、その成果のうえで繊細な計算をおこないながら撮り上げられた映画であることがすぐに理解される。

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親玉デラルー大佐(ジェフリー・ディーン・モーガン)の悪党ぶりと、その弟の未亡人マデリン(エヴァ・グリーン)との関係、あるいは弱々しい町長キーン(ジョナサン・プライス)とデラルーの関係、さらにはジョンに助太刀することになる少年やその祖母のキャラクターにいたるまで、造形に迷いがない。危なっかしいところがひとつもないまま、娯楽が展開されてゆく。

もちろん、厳しく閉ざされた、あるいは疲れ倦みきったマッツ・ミケルセンの顔は、例によってきわめて効果的に表情を閃かせ、それを読み取ろうと前のめりになるわれわれ観客のエモーションを巧みに誘導してゆく。もはや、この映画の物語を牽引するのはミケルセンの顔にほかならない。あらすじはその顔の上で展開されているとすらいいたくなる。本人にとってはけっして大げさなことでなく、ただたんにお仕事をこなしているということなのだろうが。

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ちなみに来日していたミケルセンが、「映画は好きだけど最近はあんまり見に行ってないな。映画を見るというより、見られる側になっちゃうから」というので、「見られる側になったとハッキリ感じたのはどのタイミングでしたか?」と聞き返すと、「まあ、最初の映画のときかな」と涼しい顔で即答していた。

涼しい顔というのは、そこにどんな意味を持つ表情も顕れていないという意味で、ほぼ透明といってよいくらいだった。無表情というのではなくなんでもないという顔なのだが、なるほど、この透明なキャンバスにどの絵の具をどの程度配置すればよいのか、という技術論が彼の芝居なのだと腑に落ちた。それが理解できたうえでもう一度、ヴィンターベアの『偽りなき者』(12)を見直したいと感じた。

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なお、「(シンプルな復讐譚であるがゆえに)この映画では、少なくともTVドラマの『ハンニバル』よりも表情をわかりやすく表に出しているんじゃないですか?」と尋ねてみると、「いやあ、ハンニバル博士は人生を思い切り楽しんでいるひとだからね(笑)」というのが答えであった。やはり、結局のところ「(俳優が己の内面に抱えた、あるいは内面で生成させた)感情を抑圧する/表出する」ということではなく、「いつなにをどのようにどのくらい見せるのか」という繊細な調整によって、登場人物の内面を観客の内側に結像させるということなのだろう。そしてミケルセンのそれは、職人技の域に達している。

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公開情報

© 2014 Zentropa Entertainments33 ApS, Denmark, Black Creek Films Limited, United Kingdom & Spier Productions (PTY), Limited, South Africa
6/27(土)新宿武蔵野館ほか全国公開
■配給:クロックワークス/東北新社  Presented by スターチャンネル