舞台は、リオ・デ・ジャネイロのファヴェーラ(スラム)。語られるのは、社会派メロドラマ。つまりこの映画は、『シティ・オブ・ゴッド』(02)がわれわれの中に定着させた“ファヴェーラの現実”の上に、あり得べきファンタジーを展開してみせる。
主人公は、巨大は塵芥投棄場でゴミを拾って生活している少年たち三人で、彼らはある日、ひとつのサイフを拾う。その中には政財界を揺るがすスキャンダルを暴露するカギが入っていて、彼らはそのために命を狙われることになる。なにしろファヴェーラの浮浪児たち三人なのであって、追っ手にとっては存在していないに等しい人間たちである。ゴミそのものというよりゴミにたかるハエや有機物を分解してくれるミミズと変わりない。その不可視の存在たちが、権力者を脅かし、ほとんど国全体を揺さぶりあげることになるというお話である。
『シティ・オブ・ゴッド』が定着させた風景と書いたが、実のところこの映画の製作総指揮にはその監督フェルナンド・メイレレスの名がクレジットされていて、この映画全体が、いわば『シティ・オブ・ゴッド』システムで作られている。なによりも主人公の少年たち三人は全員オーディションで選ばれていて、その顔つきがすでに有無を言わせぬ説得力を持っている。映り込む風景にしても同様である。それがまずわれわれを、このメロドラマに最後まで付き合おうという気持ちにさせるだろう。
また、無力な子どもたちが巨大な権力に抗う話をどこまでもわかりやすい万人向けのメロドラマとして展開するからには、観客であるわれわれの代理人として、部外者の視点を導入できるキャラクターが必要となる。そしてそれは、三人を手助けできる大人でなければならないだろう。その役を担うのが、ファヴェーラ内の教会に住まう神父(マーティン・シーン)とそのアシスタント(ルーニー・マーラ)である。
と書き付けると、結局のところ“善意の白人”が必要なのかと鼻で笑われるかも知れないが、ここでの彼らの役割はきわめて巧みに限定されている。つまり二人の力は、ほんのわずかばかりの物質的支援とともに精神的に陰ながら支えるといった程度に収まる。ほとんどの局面において“ファヴェーラの現実”を前にしては、誰もが無力であることを示すだけの役割として使われているのだ。しかも、ウソくさい善意のかたまりとして子どもたちを助けるのではなく、むしろ子どもたちの方が、この口の悪い酔っ払い神父から金をくすねたり、目を盗んでパソコンをいじったりといった具合に活用してゆくという、気持ちの良いお約束の構図が採られていた。
要するに、どれほど鼻持ちならない物語を見せられるのかと覚悟していたら、実のところ驚くほど好感を持てる映画だったのである。
公開情報
(C) Universal Pictures
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配給:東宝東和