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“孤独の洗礼”

ジャン=マルク・ヴァレ『わたしに会うまでの1600キロ』

文=

updated 08.27.2015

作家ポール・ボウルズによると、サハラ砂漠を訪れる人間はだれもが「孤独の洗礼」と呼ばれるものを経験するのだという。それは“寂しさ”のような感情とは無関係で、砂漠にしかない完全な静寂と静止の中で起こる奇妙な、決して心地よいとはいえないある種の内的過程を指す。それに抗いこれまで通りの自分であり続けるのか、あるいはそれによって書き換えられてゆく自分を受け入れるのか、ひとは選択を迫られることになる。

パシフィック・クレスト・トレイルと呼ばれる、メキシコ国境からカナダ国境にまで至る全長4000キロを超える道には、砂漠から山岳地帯にいたるまでありとあらゆるアメリカ西部の自然環境が含まれる。そのうちの1600キロほどの行程を、主人公が94日の間ひとり歩き続けるというこの映画の物語を見つめながら、まずはそんなことを思い出した。

もちろん「孤独の洗礼」とは、いわば強制的に“サハラ砂漠以降のヴァージョン”へと人間を書き換えてしまう過程なわけで、人生の道に迷った者がほとんど自傷行為のようにして自らを極限状況に追い込むことで自分自身との折り合いのつけどころを見いだすという、ようするにこの映画で語られるような“自分探し”の物語とはまったく異なった次元にある。

だが、最初から結論を書き付けてしまうなら、“自分探し”というありきたりで陳腐な物語に、「孤独の洗礼」を思い起こさせる強度を与えたのが、この映画の力にほかならない。

Thomas Sadoski as "Paul" (left) and Reese Witherspoon as "Cheryl Strayed" (right) in WILD.

ひとりの女(リース・ウィザースプーン)が、トレイルに苦しめられ自暴自棄ギリギリの地点に追い込まれたところから、この映画は幕を開ける。そこから時間が巻き戻り、まったくの初心者である彼女が完全なる準備不足のまま歩き始める様子と共に、少しずつ彼女の過去が明かされてゆく。

彼女の中で起こっていたことをあえて図式化するなら、母親(ローラ・ダーン)の人生に突如終止符を打ったこの世の不条理に対して、自らの身体をもって挑んだということになるだろう。すなわち「私を殺せるものなら殺してみろ」とばかりに、神の手=自然の中へわれとわが身を放り投げてみせた、ということになる。

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とはいえ、実際には大層なことが起こったわけではない。もちろん本人にとって耐え難い出来事だったことはわかるが、他人の不幸について抱く印象なんてそんなものだ。だがこの映画は、観客にそういう距離を置かせることなく、直截ヒロインの内面を共有させる。

それを成功させているのは、『ダラス・バイヤーズ・クラブ』においても、繊細な美しさと荒削りな機能性を兼ね備えた映像によって、下世話なユーモアが突如崇高さにつながるという映画を撮り上げてみせたヴァレの聡明さと腕力である。やけくそなヒロインの姿に、われわれは吹き出しながらつきあい始め、フラッシュ・バックで映し出される過去の出来事の陳腐さにあきれながらも少しずつ共感を深め、最後にはまんまと1600キロを共に歩き抜けたような気分になり、あまつさえもう一度今度はひとりで歩いてみたいという気持ちにさせられるのだ。

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途中いろいろな出会いがあるとはいっても、大部分の時間ひとりで歩いているだけという映画の場合、凡庸な作り手なら主人公のモノローグにほとんどすべてを語らせるという手法を、まずは考えるだろう。だが、ここではそれが極小に抑えられている。その代わりに、“頭の中の音”が最大限に活かされる。

静寂の中をひとり歩き続けるとき、人間の頭の中では様々な音が鳴るものだ。自分の声が特定の単語や一節を繰り返し発話することもあるだろうし、ある音楽の一節が遠くに近くにくりかえしくりかえし戻ってくるということもあるだろう。ここでは、それがそのままサウンド・トラックの中で再現されている。やられてみるとあたりまえだが、ここまでハッキリやってみせた映画ははじめてかもしれないと感じた。

それはただのマニアックな美的選択ではない。これによって、風景の映像を見ながら朗読=モノローグをただ聞くという映像作品からははるかな隔たりが生まれ、スクリーンに映し出されたものとサウンド・トラックとがピタリとシンクロしたり、衝突し合ったり、あるいは彼方から届く残響が風景を特定の文脈の中から引き剥がし別の文脈の中においてみせたりという、ひとことでいえば主人公の内的過程が映画として体験できるような結構ができあがったのである。

ある程度の時間をサハラ砂漠で過ごした者は、決して同じ人間ではいられない。「孤独の洗礼」を受けた者は、否応なく何度でも砂漠に戻ってきてしまうのだという。おおげさにいうならこの映画そのものが、そういう存在にちょっとだけ近づくことができたのかもしれない。

Reese Witherspoon as "Cheryl Strayed" in WILD.

公開情報

© 2014 Twentieth Century Fox
2015年8月28日、TOHOシネマズシャンテ他全国ロードショー