“ジジイもの”というジャンルには、俳優がすばらしければそれだけで許せてしまうところがある。というか、定義上そうでなければ“ジジイもの”は成立しない。しかも、われわれの同時代を生きているジジイにはすばらしい俳優たちがおおぜいいる。この映画のマイケル・ケインとハーヴェイ・カイテルは、その中でも最高峰の二人だろう。
そういうわけで、この二人をキャスティングしたというだけで、もう許してしまおうという気持ちになっている。たとえそこに登場する警句やら物語やら情景やらといったものが、“文学”的な大仰さに充ちていたとしても関係ない。二人がぼそぼそおしゃべりしているというだけでいいのだ。そしてそのおしゃべりを中心に持ってきて、かつある程度以上に通俗的でまっすぐな物語線を引けたということは、称賛してもかまわないだろう。
マイケル・ケインは引退した音楽家、フレッド・バリンジャーを演じる。ハーヴェイ・カイテルは、自らの「遺作」と思い定めた企画を練る映画監督ミック・ボイルを演じている。ふたりは60年来の親友で、スイスの高級な保養施設に宿泊している。フレッドはひとりで、ミックは脚本チームと共に。
フレッドのもとには、英国女王の使者がやってくる。勲章を授与するので、彼自身の往年の名曲を指揮してもらいたいという依頼を携えている。だがフレッドはそれを断る。食い下がられ、ある個人的な理由があってのことだとやや感情的に漏らす。最終的にフレッドは音楽の中に戻っていくのかどうかということが、この映画の中心的な線となるだろう。
だがだいたいにおいて、前述のとおりフレッドとミックのおしゃべり、フレッドと若き俳優ジミー・ツリー(ポール・ダノ)のおしゃべり、あるいはフレッドとその娘レナ(レイチェル・ワイズ)のおしゃべりといったものがこの映画を構成してゆく。その合間に、湯治客たちの儀式めいた情景が差し挟まれる。
湯治場の情景は、当然フェリーニ『8 1/2』(63)の残響ということであって、そこから考えるとラストにおけるミックの行動も予想がつくというものだろう。とにかく全体として枯れきった印象を生成しつつ、ときおりホテルの中庭で催される夜の出し物としての音楽演奏によって、映画に水分が供給される。映画全体としては“現代音楽”が鳴ってて、そのときだけ“ポップス”が流れるというかんじ。
などとやや皮肉っぽく書き綴ってきたが、それはこの映画のジジイたちの会話の調子に感染したからであって、それだけの楽しさを持った作品であることを繰り返しておこう。
正直なところソレンティの作品はこれ以外に『きっと ここが帰る場所』(11)しか見ておらず、しかもまったく感心していなかったので、今作にはちょっと驚いた。でもたしかに『きっと〜』でも、ババア(フランシス・マクドーマント)のズケズケとした物言いをはじめとして、ちょっと楽しいところはあった。そんなアレやコレや、持ちネタを組み合わせ、ケインとカイテルを同時に登場させる舞台を作ってみたらうまくいったということなのかもしれない。
公開情報
© 2015 INDIGO FILM, BARBARY FILMS, PATHÉ PRODUCTION, FRANCE 2 CINÉMA, NUMBER 9 FILMS, C -FILMS, FILM4
4月16日(土)より、新宿バルト9、シネスイッチ銀座、Bunkamuraル・シネマ、シネ・リーブル池袋他 全国順次ロードショー
公式サイト: http://gaga.ne.jp/grandfinale/