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やさしさと強さとしなやかさ

マイク・ミルズ『20センチュリー・ウーマン』

文=

updated 06.05.2017

時は1979年夏、舞台はサンタバーバラ。主人公のジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)は15歳で、55歳のシングル・マザーであるドロシア(アネット・ベニング)と暮らしている。

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だが二人暮らしではない。家には間借り人が二人いる。ひとりはニューヨークから戻ってきた20代半ばの写真家アビー(グレタ・ガーウィグ)、もうひとりはなんでも屋のウィリアム(ビリー・クラダップ)で、ヒッピーくずれとも元ヒッピーともいいにくいがとにかくかつてヒッピー・ムーヴメントにどっぷり浸かっていた中年男である。それから、いっしょに暮らしてはいないが、毎晩ジェミーの部屋を訪れては手出しをさせないまま同じベッドで寝る二つ年上の幼なじみ、ジュリー(エル・ファニング)もいる。

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ドロシアはいつもタバコを吹かし、株価をチェックし、第二次大戦中はパイロットとして出撃することを夢見、今は建築事務所で働いている。男の影はなく、ハンフリー・ボガートが理想の男性像のように見えて実は自分自身がボガートになりたいとかんじている。要するに、いわゆる“カッコイイ女”なのだ。

世代は違えど、アーティストを目指すパンク好きのアビーもそうだし、セラピストの母親に苦しめられ自宅に居場所がないジュリーもまた、その年齢にふさわしい危うさで強烈に少年の心を惹きつけるカッコ良さを体現している。この三人が、タイトルにある「20世紀の女性たち」というわけだ。

彼女たちに比して、ウィリアムの影は薄い。いや、実は薄いのではなく、身につけた達観する姿勢によって、女性たちをあたたかく見守っているという方が正確だろう。来る者拒まずの姿勢で、空気のように家の中に存在している。

といってしまうとこれまたいい過ぎで、なんでも屋として家の改装工事やら細々とした“雑用”をこなすことによって、かろうじて古典的な男性像を保っているようにも見える。もしくは女性たちのやさしさによって、男性的役割を与えられているようにも。いずれにせよ、60年代末からすでに10年が過ぎたこの物語の時点において、彼の語り続けるヒッピー的な価値は、若い世代にとっては正しいが故に退屈な御託にしかすぎない。

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さて“カッコイイ女”たちだが、この映画の魅力は、実のところ彼女たちのカッコ良さをゆるぎないものとして描かないところにある。三世代の“カッコイイ女”たちの痛快な姿を描く映画では、決してないのだ。

みなぐらんぐらんに揺れている。ドロシアは、40歳で授かったわが子の育て方に迷っている。映画を見る限りさほどというよりまったく問題のなさそうなジェイミーだが、ドロシアから見ると彼はすでに「謎」と化している。

もしかすると、「男親」の不在が致命的な影響を与えているのではないかとも疑っている。ウィリアムがその役を果たしてくれるかも知れないとうっすら期待した時期もあったようだが、ジェイミーとの間には強いつながりが生まれない。それで、アビーとジュリーに「教導」を依頼する。そうしてはみたものの、アビーの極度に先進的な価値観に共感しきれない「戦前派」的な部分が警報を鳴らしてしまったりする。

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アビーもまた迷いながら生き方を模索している最中だし、家族に問題を抱えるジュリーも同様である。かくて、ジェイミーは三人の女たちの助言や指導によってというより、彼女たちがそれぞれの抱える限界の中で揺れる姿を、間近でつぶさに見つめることによって成長してゆく。考えてみると、それこそ「生き方」によって導くということであって、結果論としてドロシアは正しかったということにもなるだろう。

そもそも、複数の「迷う姿」から学ばせるというのは、一元的な「教導」によって社会のルールやそこでの身のこなしを体得させるという、本質的にマッチョな「教育」のありかたとは真逆である。受動的な能動とでもいうべきしなやかさが必要とされる。それは、やさしさと同義語としての強さとも言い換えられるだろう。だからジェイミー少年は素直に、「僕はフェミニストだよ」と口にする。

かくて、“あの時代”へのノスタルジーや、きもちのよい撮影といったものをすべて除外して見ても、きわめて繊細に機能している映画なのであった。

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公開情報

6月3日(土)丸の内ピカデリー/新宿ピカデリーほか全国公開中
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公式HP: www.20cw.net
配給: ロングライド