author_main

新たな物語

ジェフ・フォイヤージーク
『作家、本当のJ.T.リロイ』

文=

updated 04.17.2017

2000年前後くらいのころ、当時在籍していた雑誌の編集部にいた同僚のアメリカ人女性編集者が、突如、「すごい作家がいて、その作家に電話インタヴューできることになった」というようなことを話して興奮していたのは覚えている。

基本的に、「ヒップなカルチャー・アイコン」的な存在には興味を持てないたちだったので、そのまま聞き流していたのだが、その後たしかページ構成にまで協力を得て、小特集のようなものを作っていたような気がする。あるいは、その作家を核としたなんらかのテーマを設定して、特集号を編んでいたかもしれない。

author_sub01

「ああ、これのことだったんだ」としばらくしてようやく認識したのは、映画版『サラ、いつわりの祈り』(05)の時のことで、その元同僚は、来日した作家にももちろん会っていたと思う。

今回時系列を確認してみると、そのJ.T.リロイなる作家が実は存在せず、「マネージャー」としてそばにいた女性の創作物だったというニュースが伝わってきたのは、映画の翌年2006年のことだったらしいが、もともと興味の薄い対象であったし、そもそも作家がアイデンティティを騙ることについては目新しくも罪深くもないものであるから、ただぼんやりと「カルチャー・アイコン」をあがめていた連中に対する「け」という意地の悪い気持ちが湧いただけだった。

このドキュメンタリーは、激しい批判と非難に晒され、約10年の間沈黙を続けていたというか世間から忘れ去られていた、J.T.リロイの生みの親というかJ.T.リロイ名義で小説を書いていたローラ・アルバートによる告白の記録である。ということになっている。

実際ここでは、アルバートがいかにして父の友人に虐待され、母自身やその恋人たちに虐待され、生きる苦しみから「男の子」を装いながら「子ども電話相談窓口」に電話をかけまくっていたかというところからの物語が語られる。「ぽっちゃり体型」に強いコンプレックスを感じながら、「太った私」以外の「私」を求め、一時期は妹を「分身」としたり、イギリス人のふりをしたりしながら青春時代を過ごす。20代後半になっても生きる苦しみは和らがず、複数の「電話相談窓口」にかけまくっているうちに、テレンス・オーウェンズという医師に巡り会う。その時に口をついて出てきたのが、ターミネーターという名の13歳の少年キャラだったのだという。

ターミネーターとして自身の体験を綴ったらよいとその医師に勧められて書き上げた短篇は、あるアンソロジーに収録され、エージェントが付く。そうこうしているうちに恋人との間に息子が誕生するが、同じ頃名前をJ.T.リロイへと変更し、最初の長編小説を書き始める。

といったぐあいにアルバートのお話は続いていくのだ。しかも彼女には、幼年期から蓄積された驚くべき量の記録物があった。それは「アーティストを目指していた母親の習慣を引き継いだものだ」と当人は語るが、この映画はとにかく、スチール、8ミリ、留守番電話の録音、あるいは通話の録音などなどといった一次資料を縦横無尽に駆使しながら、ローラ・アルバートの物語を展開してゆく。

つい「告白の記録ということになっている」という風に書き付けたくなったのも実はそのせいで、つまりあまりにもすべての記録が都合良く存在していて、かつフォイヤージークによる構成があまりによどみなく機能しているために、ここでもまたストーリー・テラーたるアルバートの才能が発揮されているのではないかという、ちょっと狐につままれた気分になるのだ。おそらくは、監督自身もその気分がストレートに伝わるように、あそこまで滑らかな語り口を採用したのではないだろうか。

author_sub02

とにかく、アルバートが一時代を築いたストーリー・テラーであったことは間違いない。なにしろ、2000年前後のアメリカで、多少なりとも体制からの距離を保ちながら「自己表現」をする数々の「アーティスト」たちを中心とするあれほど多くの人々によって熱狂的な支持を受けたということは、あのときJ.T.リロイが、彼らの欲していた物語を彼らが欲するように語っていたということにほかならないし、その物語を構成する重要な一部分が、「悲惨な生い立ちの天才美少年作家」という作家像そのものだったのであるから。

この映画の語る物語をそのまま受け止めるなら、ローラ・アルバートという人間にとって、J.T.リロイとはある種の依存症に似た症候だったということになるだろう。

J.T.リロイが「事故のような偶然の積み重なり」から想像以上の注目を浴びるようになる課程を経て「名声」のピークに達し、やがて「真実」が明るみに出るという「底づき体験」が訪れる。それから10年が過ぎ、このドキュメンタリーが作られることでようやく、現在の「回復」状態に至るというセラピーの軌跡が、ここにはある。

author_sub03

J.T.リロイ期も後半に至ると、もう自分自身でも「バレるのならバレてしまえ」とでもいうように、わざと「ムチャ」をして見せていたのだという。ただひとり、スマッシング・パンプキンズのビリー・コーガンに「真実」を語るだけでは彼女のセラピーは完結せず、J.T.リロイの築き上げた名声に匹敵する強度の「暴露」と「非難」を必要としていたのである。

ペンネームであろうが、作家の人格が捏造であろうが、作品そのものの価値は変わらないし、作家に偽られたと激昂する人間は己の愚かさを喧伝しているにすぎない。そんなことは語るまでもないことだが、そのうえで、ローラ・アルバートはまたしても物語を起動させているのではないかと、映画を見た後本人を目の前にして、あらためて感じた。

特殊なスタイルで回想録を書いているというし、J.T.リロイにはあまり興味を持てなかったが、今動き始めている物語には興味をそそられた。繰り返しになるが、そうしたことをすべて意識した上でのこの映画の作りだとしたら、監督フォイヤージークもまたただ者ではない。

author_laura

来日時のローラ・アルバート(Photo by Koji Aramaki)

公開情報

新宿シネマカリテ、アップリンク渋谷ほか公開中
© 2016 A&E Television Networks and RatPac Documentary Films, LLC. All Rights Reserved.