森林の奥深く、7才から18才まで6人の兄弟姉妹が父親と共に暮らしている。文明の利器を排除したその毎日は、自然の中で生き延びる術を身につけるための特殊部隊なみに過酷な訓練と、自律的な思考力を強化するための教育と、全員で参加する音楽演奏などの手作りレクリエーションによって構成されている。指導者は父ベン(ヴィゴ・モーテンセン)である。
そこへ、母の死の知らせがもたらされる。彼女が精神の病を得ていたこと、治療のため実家に戻っていたこと、だがついに自殺を遂げたことを、われわれは理解してゆく。妻の両親にとって、ベンは娘を奪いその人生を破壊した社会不適合者である。一家は、葬儀への参列を拒否されるが、子どもたちが承伏するはずもない。そもそも、自らの思考力を使って世間の常識に立ち向かえと教えてきたのはベン自身である。こうして一家の旅がはじまる。
現代社会は人を欺瞞し、欲望を操り、搾取に気づかないばかりか搾取されなければ生きていけない身体と心にしたてあげている。だから、まやかしによって機能しているこの文明を否定した状態でも生きていける能力を身につけなければならない。ベンの世界観とは、おおざっぱにいえばそういうことになる。
つまり社会の側からすれば完全なる過激な原理主義者であり、その子育ては虐待すれすれというよりクロそのものである。だが、60年代カウンター・カルチャーの実践とその凄惨な失敗例を知る世代である彼が、盲目的な狂信者でないことは最初から明らかにされている。
子どもたちの発するどんな疑問や反論にも真摯に答える、という姿勢を貫いているのである。究極的なリベラリズムの実践の中に、どこまでもとどまろうという努力が伝わってくる。
だが、その父親によって構築された世界観の内部でしか生きたことのない子どもたちにとっては事情が違う。認識の枠組みを疑えという父親の姿勢が、パラダイムそのものにほかならない。そのパラダイムを疑うということは、父を否定することであり、それはすなわち現代社会の一般的価値観を肯定することになりかねない。
とはいえ、これはどんな家族における子育ても辿ることになるあたりまえな過程ではある。親は子に認識の枠組みを与え、子はその中で培った認識の力を駆使することで枠組みそのものから脱する。その先でようやく親の持っていた認識の枠組みを相対化し、冷静な評価を下すことができるようになる。そんな風に成育することができれば、成功といえるだろう。
社会の中で普通に育つ子どもたちは、学校教育やメディアなどを通じて、両親によって設定されたパラダイムへの疑いを抱く機会を早くから少しずつ与えられることになる。それはある程度成長過程のショックをやわらげる効果を持つだろうが、無自覚でいれば社会全体を規定するパラダイムを深く移植される洗脳過程ともなる。いうまでもなくベンとその亡き妻は、それを避けたいと願って森の中に移り住んだのである。
旅の途中、彼らはベンの妹の家に立ち寄る。基本的に妹はベンの味方なのだがそれでもなお、学校に通っていない子どもたちを心配し、親としての独善性を責める姿勢を示す。だが“現代社会に毒された”妹一家の子どもたちはといえば、親のいうことも聞かず隙さえあればテレビゲームに淫し、自分の考えを持つだけの教養も持たない。幼い子までもが合衆国憲法に知悉するベン一家とは、好対照である。ベンは、どちらがいいのか議論の余地はないと言外に示す。
一方で長男ボウドヴァン(ジョージ・マッケイ)には、キャンプ場でちょっとした出会がある。いかにもその年頃の現代っ子らしいダルさとクールさを全身から放つひとりの女子に惹かれるのである。自律的思考力を持ち大自然の中で生き延びる能力を持つボウのことだが、自分の中に芽生えている異性への興味とどのようにつきあったらいいのかはまったく分からない。ベンが性的な事柄を抑圧しているのではない。むしろその逆ですらあるのだが、そうであればあるほど、性にまつわる微妙で仄暗い本質は伝わらない。子どもの成育にとって、親はただリベラルであればいいというわけではないのだ。
ひとり12才の次男レリアン(ニコラス・ハミルトン)だけが、父に従うことそのものへの反発心を徐々に募らせていく。母を喪わせたことで、父を責める気持もある。父がこれほどまでにパラダイムに固執していなければ、母も命を失うことはなかったのではないかと感じはじめるのだ。
物語はこうして、現代社会そのものを体現する裕福な祖父母との対決へといたる。そこから先、いくらでも過激な展開は考えられる。悲劇への道もまた、そこら中に転がっている。だがここで示される結論は、きわめて穏当なものだ。意外なことはなにも起こらない。
それは結局、現代社会の枠組みの中に取り込まれたということではないのかと感じる向きもあるかもしれない。森の中の生活は無駄だったのかと。しかしながら、奇抜さや過激さの中に回答がないことはわかっている、という気持にさせるところが、この映画の物語が機能しえたことの証しだろう。こちら側かあちら側か、ということではない。
森の中の生活があったことによって、彼らの生き方が既存の社会の中に包含されたとしても、その本質は冒されることがなく、そうであればベンとその妻の試みは敗北を期していない。認識として弾けきっていないし苦くもあるが、社会を完全に否定することもまたその社会のありようの本質を肯定することにつながる、ということなのだ。
公開情報
2017年4月1日(土)より全国ロードショー公開中
公式サイト: http://hajimari-tabi.jp/
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