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この世界もあの世界も

オタール・イオセリアーニ『皆さま、ごきげんよう』

文=

updated 12.16.2016

ギロチンで処刑される「貴族」とその首をカゴにしまい込む見物人の女の姿からはじまり、ユーゴスラヴィア内戦を思わせる戦場でのバカバカしくも凄惨にも見える風景などを横切ってカメラが現代のパリに到達すると、ローラースケートで道を行く女強盗団があらわれ、ひとりの浮浪者がローラーに轢かれる。とはいっても血や内臓が飛び散るわけでもなく、浮浪者は文字通りペシャンコになるだけなのだ。あまつさえ、ペシャンコな身体はそのまま持ち上げられて運ばれたりもする。

こんなふうにはじまって、そのまま映画は続く。「管理人(リュファス)」と「人類学者(アミラン・アミラナシュヴィリ)」のように、イオセリアーニらしい老人コンビがときどき出てきてあれやこれやおしゃべりをしながらどこかへ向かったり、時空の狭間のような庭園にさまよい込んだり、強盗団の青年に恋のてほどきを好き勝手にしたりはするので、見ている側はそのたびにいろんな図式をあてはめて解読しようとするのだが、いっこうにうまくはいかない。

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もちろん、もはやはるか昔のようにも感じられる『シャルリー・エブド』とその襲撃事件以降たとえば「風刺」という枠組みそのものの意味が変質したことも明らかなわけで、スクリーンに現れてはどたばた消えていく人たちの生み出す混沌としか呼びようのないものを見つめていると、これはわたしたちの生きる世界そのものであるという気持ちだけが強くなってくる。ヨーロッパと、そこで起こっている出来事に集約されているこの世界のありようそのものということになるだろう。

しかもその上でイオセリアーニがこの映画で展開してみせているのは、「今現在ここで起こっていることは、人類がこれまで際限なく繰り返してきたことに過ぎない」というような風景であり、まさに冒頭の戦場シーンのように、陰惨なようではあっても絶望に塗り込められてもいなければ、安っぽい希望をひと捌け加えられてもいないという風景なのだ。

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たとえば『月曜日に乾杯!』(02)における「ヴィネツィア」や、『ここに幸あり』(06)における「失脚」といったような、「離脱先」がいっさい示されないという意味では絶望的だが、それでも浮浪者たちや「管理人」と「人類学者」コンビのように何の役に立っているのかまったく分からない連中の身の回りにのみ立ち上がる異次元空間みたいな、もしくは亡霊の生活圏みたいなものはまだある。

外から眺めれば独善的だったりマヌケだったりただの犯罪だったりまったくの意味不明だったりする時空であっても、その中にいる人々にとってはそれこそが「生」そのものなのであり、結局のところその中から見ればわれわれの方が意味不明の側にいる。

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両者の間の往還はほとんどなくても、そういう陥没地帯のようなものを互いに抱え込んでいることだけがこの世界から失われていない唯一救いに近いものかもしれない。限りなく絶望的な状況ではあるが、同時にそれは、これまでもそうだったんだから仕方がないというある軽さによって支えられてもいる。そんな手ざわりの映画だった。

ところで、久しぶりにイオセリアーニその人を見たくて来日記者会見に出かけてみた。少しは老け込んだかと思いきや意気ますます軒昂で、質問を訳させながら一服つけに席を立ったり、ひとつの質問に一時間以上かけて応えながらだんだん興奮してきて立ち上がったり。しかも話の大部分は、映画というものがいかにして「商業」によって汚されたのか、そしてイエスの言葉がいかにして「脳内に細胞を三つしか持っていない連中」によって伝えられてきたか、というようなことに費やされていた。

締めくくりは、「パリで撮ることにいっさい特別な興味はない。ただ、東京で撮らなくてすんだことだけはありがたいと思う。かつてあれほど美しかった町なのに」という言葉だった。「道ばたでタバコを吸えないのに暴動がおこらないなんてどうかしてる」と嘆いて見せていた。

そんなことをしゃべっている彼の周囲にはもちろんコニャックの香りが広がっていたし、まったくもってイオセリアーニの映画としかいえない愉しい一時間半あまりだった。

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