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“イヤなかんじ”から“トンでもないこと”までの道のり

黒沢清『クリーピー 偽りの隣人』

文=

updated 06.16.2016

「あの人、お父さんじゃありません。全然知らない人です」。このセリフ/コピーだけで成功したも同然だろう。想像のパターンは無限に拡大する。「お父さんじゃない」のなら誰なのか、からはじまり、どうやって「お父さん」になったのか、それとももしかしてこれを口にする「家族」の方の頭がおかしいのか。

主人公である元刑事の高倉(西島秀俊)は、犯罪心理学者として大学で教えている。妻である康子(竹内結子)と共に、住宅街のはずれにある一軒屋に越して来たばかりのところだ。場所は特定されないものの、中央線沿線にあるベッドタウンのへりといったところだろう。駅からしばらく歩き、住宅密集地を抜けてゆるい坂道をのぼる。手前が高倉家、その向こうに西野家、そのさらに向こうにもう一軒というふうに家屋が並んでいる。そして坂の下を流れる川は、三軒だけを隔離する境界線のようにも見える。

高倉家と居を接する隣人である西野(香川照之)は、登場した瞬間からどこかおかしい。引っ越しの挨拶をする康子に対して失礼極まりない態度を取ったかと思えば、次に会うときは極端に愛想が良かったりする。澪(藤野涼子)という中学生の娘もいて、親子関係は上々のように見えるのだが。

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一方で職場の高倉は、ふとしたことをきっかけに、六年前に発生した「日野市一家行方不明事件」に興味を惹かれる。四人家族の両親と長男が姿を消し、当時中学三年だった娘の早紀(川口春奈)だけがあとに残されたという奇怪な事件である。当時の早紀は要領を得ない証言しかできず、解決にいたっていない。

そこへ、狙い澄ましたかのように現れた刑事時代の後輩、野上(東出昌大)。彼に請われた高倉は、大学生となった早紀との面談を気が進まないながらも引きうけることにする。すると早紀の記憶はいまだに混濁したままだが、あの頃たしかに、何者かが自分の家族を心理的に支配していたような気がすると話す。

こんな風にして、二つの物語が展開されてゆく。興を削がないためには、これ以上のあらすじを知らない方がいいだろう。どんな実際の事件が、この物語に影響を起動させたのかという話も、むろん知らない方が良い。

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いうまでもなく黒沢清の映画であるから、いわゆる“最後のどんでんがえし”に依存した内容ではない。ひとつひとつがじわりじわりとつながり、“イヤなかんじ”が実際に“イヤなこと”を導き寄せ、それがいつのまにか“トンでもないこと”となって身動きとれない事態にはまり込んでしまっているという展開の気味悪さを、そのまま味わえばよいという作品ではある。

そしてその気味悪さとは、「こうなったらイヤだな」「たぶんこうなるんだろうな」とほとんど無意識のうちに想像していたことがあれよあれよという間に現実のものとなっていくことに起因するものだけではなく、むしろ細部においてはその想像を裏切るものが数多く含まれるという、なんともいえない違和感にも起因している。だから、前知識ナシでいきなり触れるのがいちばん楽しめるのだ。

また、高倉の住む地区や日野市の事件現場、あるいは早紀の住むアパートをはじめとして、相変わらずすばらしいロケハン仕事の成果を見ることもできる。特に高倉家周辺と日野市の事件現場は、その場所の景色ないし土地の構造そのものが物語上の意味を持つということもあり、見事である。

緑に覆われた印象の西野の家などは、一見すれば庭いじりの好きな主婦のいるなんでもない住宅なのだが、ちょっと日が陰り、そこに風が吹いて緑の葉が蠢いたりすると、いきなり不穏な匂い立ちこめる。トビー・フーパー『悪魔のいけにえ』(74)で、最初に“あの家”が登場し、その中に主人公たちが足を踏み入れたあの瞬間のあの感覚が、ふと蘇るようにすら感じられた。

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とはいえあえて誤解を怖れず付け加えておくならば、おそらくはテレビで二時間もののサスペンスしか見ないような観客であっても、素直に引き込まれ面白がるのだろうという、黒沢清作品としては希有な“普通さ”に到達した作品ともいえる。そういう意味で、原理主義的な黒沢ファンには食い足りないものがあるのかも知れない。

しかしながら、細かな“つっこみどころ”は“映画の力”で乗り切ってしまおうという潔さも健在だし、個人的には、監督・黒沢清にはもっとこういう“普通”の娯楽作品をたくさん撮ってもらいたいと、強く思った。

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公開情報

©2016「クリーピー」製作委員会
6月18日(土) 全国ロードショー
配給: 松竹、アスミック・エース