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論理的に明確

シーロ・ゲーラ『彷徨える河』

文=

updated 10.27.2016

深い闇が明けるとひとりの男がいる。ぴたりと閉じた誇り高い顔つきと、必要のみによって鍛え上げられてきたことのわかる鋼じみた身体つきは、樹林のなかに半ば溶けこんでいるように見える。

そこへ、やせ衰えた一人の白人の漕ぐボートが漂着する。白人は死の病に冒されている。聖なる植物ヤクルナを見つけられれば命は助かるのだが、そのためにはジャングルの民に伝わる智慧を体現するシャーマンの助けが必要なのだと訴える。

白人の名はテオ(ヤン・ベイヴート)。シャーマンの名はカラマカテ(ニルビオ・トーレス)。白人一般の所業を憎むカラマテは、当初かたくなに協力を拒むが、最終的には折れるというよりもほとんど好奇心に負けるようにして、河の遡航につきあうことにする。ジャングルへの畏怖に押しつぶされた白人の弱さを眺める愉しさもあったにちがいない。孤独にひとり抱えてきたシャーマンの智慧を試したいという気持ちも、どこかにあったかもしれない。

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同時に、われわれはもうひとつの旅のはじまりにも立ち会うことになる。ヤクルナを探すひとりの白人植物学者が、年老いたシャーマンに助けを求めるのだ。白人の名はエヴァン(ブリオン・デイヴィス)、そしてシャーマンはカラマカテの年老いた姿(アントニオ・ボリーバル・サルバドール)であることが、徐々に理解されてゆく。老いたカラマカテは、ジャングルの智慧を失っている。

こうして、数十年の隔たりを持つふたつの旅がはじまる。同じひとつの場所を流れた歳月の厚みが、風景の変化によって示されることもあるだろう。『地獄の黙示録』(79)では河の遡航がすなわち時間の遡上でもあったが、この作品ではそれに加えて異なった時間軸間での不思議な呼応関係があり、ところどころでほとんどSFのような手ざわりすら感じさせながら、われわれは四人(もしくは三人)の旅に引き込まれてゆく。

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ところで、『地獄の黙示録』=コンラッド『闇の奥』を祖型とした物語を語る場合、文字通り「闇の奥」になにが待ち受けているのかという点が重要になる。思わせぶりたっぷりに盛り上げた挙げ句そこが拍子抜けでは、映画全体が瓦解する。

この映画もまた、旅の展開がなかなかにうまいのでその点を危ぶみながら眺めていると、それは杞憂に終わる。奇異なものを見せてやろうと肩肘張るのではなく、確固とした必然性のうえで、予想外ではないにしても旅の意味を論理的に明確化させるラストが訪れる。

その論理性は監督ゲーラの若さ(1981年生まれ)ゆえと感じる向きもあるかもしれない。だが、彼の持つ同時代的な感覚と記憶によって、この映画はいたずらにわかりにくい語り口で生真面目な物語を禁欲的に見せるような種類のアート映画とは一線を画することができたのである。

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ジャングルの上空を飛ぶと、見渡す限り続く樹冠がふかふかなカーペットのように見える。どす黒いほど濃い緑色のカーペットは、蛇行する茶色い河に抉られていて、ぐねりと湾曲した部部から少し離れたところには、かつての流れが三日月湖として取り残されていたりする。強烈に印象的な景色だが、西部劇に登場する広大な砂漠と異なり、これまでは旅愁をそそることがなかった。ところがこの映画のスクリーンを埋めつくすモノクロのジャングルを見つめていると、ふらふらと河の上に彷徨い出て、そのまま遡航を始めたくなってしまうような危うさが身内に生じるのを感じた。

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公開情報

©Ciudad Lunar Producciones
2016年10月29日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー
配給: トレノバ、ディレクターズ・ユニブ