ノーベル文学賞を獲得したラテンアメリカの作家でスペイン在住といえば、マリオ・バルガス=ジョサがすぐ思い浮かぶが、彼はペルー人であってアルゼンチン人ではない。アルゼンチン人のノーベル文学賞作家はまだいないようで、ならばホルヘ・ルイス・ボルヘスはちがったのかとちょっと意外な気もするものの、ボルヘスの場合そもそもアルゼンチン人はおろかラテンアメリカ人というかんじすらしない。
本作の主人公ダニエル・マントーバ(オスカル・マルティネス)は、アルゼンチンの片田舎にある故郷サラスをモデルに作品を書き続けてきた。そういう意味ではまぎれもなくアルゼンチン人の作家だが、20代で故郷を後にしてから40年間戻っていない。その彼がノーベル賞を受け、スランプに陥るところから映画ははじまる。ノーベル賞に選ばれるということはあまねく世間一般に認められたということであり、それはつまり作品に仕込まれたトゲが機能しなくなったということを意味し、すなわち作家としての衰退の証であると受け止めるのである。かくて、一作も書けないまま5年が過ぎる。
そんな隠棲が板についてきたころに、サラスから「名誉市民」の称号を贈与したいという連絡が来る。「行くわけがない」というせせら笑いが最初の反応だが、ふと「行ってみるか」という気持ちになる。書き続けるためには戻らないことが必要だったとすれば、書けなくなった今、戻らない理由もないということなのかもしれない。あるいは、さすがにこれだけの時間が経てばあの片田舎も変わっているだろう、その様を確認しに行ってもいいという好奇心が、暇に任せて湧き上がった可能性もある。おそらくは、そういうものすべてが入り交じった気まぐれだったのだろう。
そういうわけでほかの予定をすべてキャンセルし、バルセロナを発つ。最寄りの空港からの道ではさっそく問題が発生し車中泊をするハメになる。だが、忌避していたといっても良い故郷の町に実際に足を踏み入れてみると、それでも懐かしさのような感情もこみ上げる。とりわけ、かつての恋人イレーネ(アンドレア・フリヘリオ)と再会し、彼女の魅力がまだ失われていないことを確認した時などには。
ここまでを見ていると、世界的な洗練の上澄みを生きている人間が、素朴の極みというよりほとんどおぞましさの域にあるように見える片田舎の故郷に戻り、相変わらず別の時空に生きているような住民たちの奇妙かつ野蛮な行動に思わず笑わされたり嫌悪感を覚えたりしながらも、こちらに余裕さえあればそんな彼らをどこか微笑ましく思える気持ちも生まれ、知らないうちに心が溶かされていく、といった展開が想像されるだろう。たとえば、田舎の景色とそこに住む人びとの魅力ということでは、『ローカル・ヒーロー/夢に生きた男』(83)のような作品が思い出される。だがこの映画はちがうのだ。
野蛮とシュールの際にあったものが、次第に不穏と暴力の方へと遷移しはじめ、時に計り知れないローカル・ルールの存在を感じさせられたり、冗談かと思って調子を合わせて笑っていたらその背後には本物の憎悪があったというような出来事が次々に出来し始める。
小説の中では、モデルとなった町にとっては必ずしもありがたくはない描き方をしているらしい。それが小説というものなのだという信念に偽りはないが、そういう意味で故郷を搾取してきたとも言えるわけで、マントーバ自身に後ろめたい気持ちがまったくないかといえば、ウソになる。だからこそことさら、「文化不毛の地」に対する「やさしい文化人」という、限りなくイヤらしくもある態度を全身にまとうことにもなる。それは、アルゼンチンの田舎を眺めるわれわれの視線の中にもある。
そんなこんなで、「これじゃあ、コイツ嫌われるよな」と感じたり、「こんな腐れ田舎、脱出して正解だったな」と感じたりで、われわれもまた気持ちの上では徐々にマントーバにシンクロしてゆく。しかしながらこんな人物にシンクロしたところでどうなるのかという疑問が、次のサスペンスを呼び寄せたりもするだろう。後期のブニュエルを思わせたりもするが、風刺に終始するわけではない。
フェリーニのひなびた祝祭を経由してカフカ風な迷宮にいたり、それがノワール的な暴力を感じさせたかと思えばヒッチコックのサスペンスやラヴクラフト流にもかんじられる恐怖が噴出するという具合に連れ回されたあげく、放り出される。そしてその放り出す地点が、なかなか巧みなのだ。「ここまでいくの!?」と感じさせながら、なんとなくの納得も与えられる。
小さいジャンル映画だったような、人間のヤバイ本質に触れた文芸映画だったような、味わいは奇妙だが面白いことだけは揺るがない映画だった。
公開情報
9/16(土)〜岩波ホールにてロードショー、以下全国順次公開