生まれ育ちというのも重要な要素だが、それが同じでも30代に入るころまでにどういう環境で生きてきたのかということが、その人間の仕上がりに大きく影響する。大企業ないし大手、つまり少なくとも“クビ”や“倒産”の心配がない環境で働いてきた人間と、中小以下の企業の中でつねに自分の居場所を確保することを考えながら“ゲリラ”的なやりかたで働いてきた人間とでは、話をしたときの感触がまったく違うのはあたりまえのことである。
前者は性格や感じの良し悪しとは関係なく、どこか根本的にのびのびとしていて“鷹揚”なところが感じられるし、悪くいえばそれは“甘さ”や“生ぬるさ”とも言い換えられる場合があるだろう。後者の場合はおそらく(自分がこちら側にいたのであまり客観的につかめないが)、良くいえば限られたものから最大限を導き出そうと知恵を絞る姿勢を持っていて、悪くいえば思考の範囲がせせこましいということになる。
なぜこんなことを思い出したかといえば、この映画の主人公ケニー・ウェルス(マシュー・マコノヒー)が、典型的な後者の人間のように見えて、それだけではないからなのだ。
祖父の代からの採掘会社ワショーの経営者という血筋の良さにもかかわらず、その後傾き続ける会社と共にもがき続け、中年にいたる頃までには典型的な成り上がり者に仕上がっている。その姿は、採掘という博打ですり続けながらも、いつの日かやってくるはずの大当たりを目指して賭け続ける、単なる博打狂いにも見えるだろう。
「貴種流離譚」の主人公として、返り咲きを狙っているわけでもない。彼の原動力は、ただひたすら一発逆転であり、それによって世間に一矢報いることである。酒浸りの姿を見ればわかるとおりの依存症体質ではあるが、博打依存とも本質的に異なった手ざわりが感じられる。
己をコケにした相手に復讐したいという執念に近いことは近いのだが、ケニーにおいてはその現れ方が微妙に異なっている。実際、ついに復讐を果たせる段に至っても、それをしない。
「あるべき世界」の姿を、回復しようとしているとでもいえばいいのか。そしてそれが可能であるという病的な楽観姿勢にはあきらかに、育ちからくる“鷹揚”さも感じられる。そうしたものが渾然一体となって、ケニーの磁力を形成している。
かくて、ケニーは神託を受け取る。正確には、単に酔っ払いの見た夢なのだが、それは「インドネシアへ行け」と告げる。インドネシアには、ケニーの鏡像的な存在、マイケル・アコスタ(エドガー・ラミレス)がいる。彼もまた、かつて浴びた栄光から離れて久しい男である。
ケニーの妄想狂じみた熱にあてられて重い腰を上げたアコスタは、すべてが水泡に帰すかと見えたぎりぎりのタイミングで、ついに金鉱の存在を示す証拠を見つけ出す。ニュースは広がり、ワショーの株価は急上昇、態度を一変させた投資銀行がケニーに群がり、大量の資金が流れ込み始める。常軌を逸した粘りの果てに、ケニーの人生の頂点が訪れる。
ところが観客は、ある時点からFBIによって尋問を受けるケニーの姿を目にし始める。いったい頂点からそこまでの間に何が起こったのか、という話だ。「まさか」とは思い始めても、それを信じたくない。だがカタストロフィーの瞬間はやって来る。地獄行きを共にした親友と見込んだアコスタが、採掘サンプルを偽装していたというのだ。
という物語のすべてを支えるのが、歯並びの悪い顔をゆがめて笑い、ハゲ頭と中年太りの腹をさらし、なにかといえば白ブリーフとかフルチンで登場するマコノヒーの身体である。
めちゃくちゃだがどこか品の良さを失わないというケニーの魅力は、すなわちマコノヒーの魅力そのままなのであって、これは徹頭徹尾マコノヒー映画である。同じ脚本でも、これが別の俳優であったとしたらまったく別の物語として受け止められていただろう。
ひと言だけ付け加えておくと、一瞬、「なんだこれも依存症から脱するセラピーとして機能する物語なのか」と思いかけるかもしれないが、実はまったくそうではない。
公開情報
6月1日(木)TOHOシネマズ シャンテほかにて全国ロードショー