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折れるなら折れろ

ベン・ウィートリー『ハイ・ライズ』

文=

updated 08.07.2016

ここ数年、よく子どもが高層マンションから転落する。高層階の風景に馴れすぎると高度への恐怖が薄まるのではないかという仮説があるらしい。高さが怖くない子どもたちは、こともなげに落下してゆく。

また、たとえばブラジリアのような人工都市では、さまざまな計算や配慮の上で住居や商店、病院や官庁などが配置されているわけだが、そのように完全な都市計画に基づいて作り上げられた街では、どういうわけか自殺率が上昇するのだという話も一時期よく耳にしていた。

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そこで自分の記憶をまさぐってみると、7階に住んでいた幼年期の風景が蘇る。もちろん、7階では高層とすら呼べないのだろう(少なくともこの『ハイ・ライズ』では、10階以下はハッキリと低層に属する)。だが、ベランダの手すりから両足をだらんと空中にぶらさげて景色を眺めると、正面に並ぶマンションの隙間に公園の樹冠が見えて、十分に高度を感じたものだった。そしてその高さの中での遊びは、奇妙に魅力的だったことを覚えている。

床に石けん水をひきのばしては端から端まで腹や尻で滑りまくる以外にも、地上に向かって水風船を落としたりじょうろを使って放水したりという行為にも熱中した。ベランダから見える風景に、「こんなことしたらどうなるかな」という“実験ごころ”を刺激され、唾液を落下させたり放尿してみたり、あるいは糸につるした人形をどこまでも降下させてみたりしたが、どういうわけか一度も見とがめられることがなかった。

あのままエスカレートしていたら、「うちの猫を落としてみたらどうなるかな」というところにまで至っていたかもしれない。30年以上の隔たりをおいても少し背筋が寒くなる。それでもなお、今でもあの高度には誘惑されるのだろうという確信がある。そういえば、高層マンションからモノを投げるという事件もわりとよく耳にする。

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高層マンションに集約されるようなテクノロジーによって築かれた人工環境の中で、人間は根本的な変化を遂げる。J・G・バラードによる小説『ハイ・ライズ』が考察するのは、そういう命題である。そして変化はたとえば、上述のように些細な部分からはじまるのだろうということは、皮膚感覚としてすぐ腑に落ちる。その先には、「猫を落としてみたらどうなるかな」という野蛮な“実験ごころ”もある。それが、高層マンションでの空中生活を営むことまで可能にした、人類がひたすら目指してきた文明からの“退行”であることはあきらかだけど、猫を落とす前から“退行”がはじまっていることもたしかだ。『ハイ・ライズ』の住民たちもまた、高層階、中層階、下層階に分かれ、暴力に支配された“部族社会”へと“退行”してゆくが、それが物語上のどの時点ではじまったことなのかはハッキリしない。

映画版は、原作の思考に寄り添いながら展開される。それゆえ、開巻とともに、文明が“崩壊”し暴力によって支配されたマンション内の情景がまず提示されてからそれ以前に時点にまで遡り、回想形式によって物語が語られ始める。だが主人公たちの“退行”が、どのような決定的段階を経たのかがつまびらかにされることはない。住民たちは整然と計画された時空の中で日常生活を送っていて、そのままある日“退行”のただ中にいる。ようするにそれは、入居とともに、いや、高層マンションへの入居を決めたところからはじまっているのだろう。

原作においては、高層、中層、下層に棲まう各住民たちの“部族化”と“対立”がより精密に観察されていたが、映画では中層階の住民たる医師ロバート・ラング(トム・ヒドルストン)の上にある程度以上視点を固定し、傍観者的であるが故にもっとも積極的な加担者であるというような彼の立ち位置に、われわれを置く。

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これは、極めて正しい選択肢だったといえるだろう。ここで重要なのは、前述のとおり、階級闘争ではないのだから。もちろん、物理的な階層分けと経済力の格差は同期しているわけで、必然的に階級闘争の文脈は導入される。だがこれは、人間社会に潜んでいたもの(たとえば階級格差という“真実”)が出現しそれへの爆発的な反応が人々の間に噴出するというお話ではない。繰り返しになるが、コンクリートの巨大な塊にうがたれた無数の穴の中に棲まうことが、人間のありかたそのものにもたらすモノを検討するのが、この物語の主眼なのだから。

その意味で、この映画が獲得し得た真に画期的な視覚表現は、高層マンションの造形にあるだろう。このマンションはただ天空にそびえるのではなく、ちょうど高層階がはじまるあたりからグッと角度が付けられ、今にも後ろに倒れてしまいそうになりながら立ち尽くしている。物理法則に挑むかのような、その意味ではテクノロジーと自然との拮抗点として、まるでテクノロジーが本質的に孕む不安(定)そのものを形象化したものであるかのようにも見えるようにデザインされている。

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だれもが理性においてはテクノロジーへの信頼を揺るがされることなく、しかし実のところ高層階の住民は今にも足下が空中に崩壊しそうな不安を抱え、中層、下層階の住民は常に重力が一方向にねじ曲げられているような不快を抱えることだろう。下層から見上げれば、「折れるなら中層あたりで折れてしまえ」という気分になるだろうし、中層にいると、「折れるならここより上で折れてくれ」と祈りたくなるだろう。そうして、誰もが「どうせ折れるなら都合の良いところで折ってしまえ」という気持ちに固まる。かくて、ここでは誰ひとり安定した文明を維持できる者はいなくなるのだ。そのとき、“退行”はこのうえなく心地よいものとしてわれわれを捉えるだろう。住民たちは破壊と暴力の中にあって、その状況を脱したいという欲望を持たないのである。

では、高度化したがゆえにブラックボックス化した数々のテクノロジーによって規定されているこの社会ではどうなのだろう。“退行”はなにかをきっかけとして起こるものではないことは、わかった。ならば、もうすでにわれわれは“退行”のただ中にいるのではないか。あるいは誰もが密かに“退行”を夢見ているのではない。そんなことを考えさせられる物語であるし、映画である。映画を見たら原作を読みたくなるだろうし、原作を読んだら映画を見たくなるだろう。どの順番でも、刺激される思考は一方向だけではない。

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公開情報

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