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退屈と不安と恐怖

吉田恵輔『ヒメアノ〜ル』

文=

updated 05.25.2016

われわれのささやかな幸せを破壊するものはいくらでもあって、むしろ幸せなんていうものが出現しているとしたらその事実自体が奇跡であるということはいうまでもない。それでもいろんなものに目を瞑って、目の前の一点だけに視線を集中したり、ありったけの想像力をふりしぼって見えない風景を出現させたりすることで生きているというのがわれわれの日常というものだろう。

大災害なんか起こらなくても、幸せはふたつのもので簡単に壊れてしまう。ひとつは退屈で、もうひとつは不安だ。幸せは退屈と紙一重というかほぼ重なり合うものだが、ひとたびそれに捉えられるとよけいな想像ばかりがかきたてられてしまう。そして想像の方向を少しでも間違うと、あっという間に不安が出現してわれわれの目の前を真っ黒に塗り上げる。だからわれわれは、退屈を押し殺し不安を封印して、生きていかなければならないのだ。

古谷実の作品は、手を変え品を変えそんなことを繰り返し描き続けている。とてつもなく危険なマンガである。こんなこと考えないで済めばその方がよかったと感じることだけで出来上がっている。でもこんなことでも考えておけば、ほんとうにそんな目に遭ったときにすこしはマシな対処ができるかもしれないじゃないか。という言い訳を自分にしながら読みふけるのだから、究極のホラー作品ともいえる。

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一方吉田恵輔という監督は、どこまでも醒めきった視線によって登場人物たちの愚かさをすみずみまで分解し白日の下に晒しながらも、それ故に獲得したとしかいいようのない優しさによって、それをひとつの物語にまとめ上げるという作り手である。「どいつもこいつもバカだなあ」と自分自身をも除外することなく、乾いた笑い声を上げながら、われわれの日常を見つめている。

感情に押し流されることもないし、絶望しすぎることもない。もちろん、露悪に淫することもない。考えれば考えるほど、古谷実作品を映画化するのに、吉田恵輔ほどふさわしい人間もいない。ようするにこの『ヒメアノ〜ル』は、古谷実の映画化作品としても、吉田恵輔作品としても、これ以上望めない高みに到達していることを、まずは書き付けておきたい。

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岡田(濱田岳)は、平凡すぎる青年として、人並みの焦りを感じながら毎日を過ごしているが、これといって将来の夢はない。そんな彼がパートタイマーとして務めているビル清掃会社には、ひとりの先輩、安藤(ムロツヨシ)がいる。余計な未来を思い描かないことで、おのれの絶望的な平凡さから生まれる日常の平穏を抱きかかえるようにして生きている岡田と違い、安藤は身の程知らずなという以上に傍迷惑な未来に全身全霊を傾けている。

その未来世界では、行きつけのカフェで働いているユカ(佐津川愛美)との恋愛が成就している。もちろん、岡田以外の他人とはまともに口をきくことすらできない安藤が、そんな未来を手にする可能性は微塵もない。微塵もないが、安藤の生きている世界は、そんな真実によって浸食されることはない。だから彼の心は、ときめきと幸せの予感に充ちているのだ。いや、予感ではなく安藤は幸せそのものだといってしまってもいいだろう。

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さて、安藤に想いを託されてユカと接触するはめになる岡田は、彼女が不気味な男につきまとわれているという話を聞かされる。それが、森田(森田剛)である。森田は偶然にも、岡田のかつての同級生だった。森田の高校時代が、凄惨ないじめの毎日によって塗り上げられていたことを、岡田は記憶している。

物語はこの時点で突如、オフビートな共感系コメディから、暴力の予感に支配された先の読めないノワールへと転調する。森田はたしかに、特別な感覚を持ってユカを監視していたのだ。主人公たちの生きる毎日は、恐怖の時空と化す。そこでは何らの必然もなく人が殺され、昨日とおなじ今日があることにいっさい疑いを抱いていないひとたちの明日が、次から次へとあっけなく断ち切られてゆく。

なによりも怖ろしいのは、暴力と無縁の者は誰ひとりいないということだろう。いつでも潜在的な被害者であり、無意識の加害者でありうるのだ。こんな認識を抱えて平穏に生きられる人間はいない。

という物語を語る吉田恵輔の語り口にブレはない。淡くなるところでは躊躇なく淡くなり、振り切れるところでは限界を超えて振り切れる。生ぬるい共感の笑いから、引きつった笑い、さらには、あまりに酷い暴力を目の前にして笑うしかないから笑ってしまったという種類にいたるまでの幅を持つ笑いが、波状攻撃のようにわれわれを襲う。そのたびに、腹の底が冷えかえり、どす黒い不安なヘドロのように溜まっていくのを感じるだろう。しかも吉田恵輔はここで、ひたすらイヤな気持ちのまま映画を見終えることすら許さないのである。

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公開情報

©2016「ヒメアノ〜ル」製作委員会
5月28日(土)TOHOシネマズ新宿ほか全国公開