「あの人に会いたい」というのが初期衝動だとしたらインタヴューとはもちろん「愛」の表明であり表現なのだが、そうであるが故に願いかなっていざインタヴューに臨むと「意外とがっかり」したり、しかも「がっかり」と思っていても実は単にこちら側の「愛」が強すぎてそれに応えてもらえなかったという身勝手な印象から「がっかり」しているにすぎないということが後でわかったり、あるいは「愛」が先だつあまり「質問」よりも「自分の考えを聞いてもらう」ばかりになってしまったりと、とにかくインタヴューは難しい。
だからトリュフォーによるヒッチコック・インタヴューは、インタヴューというもののひとつの理想型であり、常に立ちかえるべきものとして屹立している。そこでは、ヒッチコックへの「愛」でいっぱいの若きトリュフォーが、ただひたすらヒッチコックの映画について質問を繰り出していく。それを受けるヒッチコックもまた、はぐらかしや韜晦によって言葉をにごらせることなく答えていく。1962年の夏、インタヴューは一週間にわたって続けられ、録音されたテープは50時間に及んだ。通訳の時間を差し引いても、実質25時間から30時間に匹敵する対話である。
インタヴューの申し込みは、トリュフォーのしたためた長文の手紙によって行われたという。その熱意と敬意にうたれたヒッチコックは、「あなたの手紙を読んで私は涙が出ました」と返答した。すべてが終わった後、映画と映画作りに関する具体的な智慧と思考がぎっしりと詰まった、日本語版のタイトルどおり『映画術』がわれわれの手元に残された。
その経緯をたどるところからはじめるこの映画は、ヒッチコックについてのドキュメンタリーではない。「トリュフォーによるヒッチコック・インタヴュー」についての映画なのだ。つまりはトリュフォーによる「ヒッチコック愛」についての映画でもあり、それに自らを重ね合わせる現代の映画人たちの「ヒッチコック愛」についての映画でもある。
若き日のスコセッシにとって『めまい』(58)はほとんど神話の中の作品となっていて、友人たちとともに16ミリの複製版を探し回った時期があったなんていう愉しいエピソードや、デイヴィッド・フィンチャーやウェス・アンダーソンが『映画術』に読みふけっていたというさもありなんという話、はたまた黒沢清がヒッチコック的になることを自らに戒めてきたというさまざまな意味で示唆的な言葉などが収められている。
「おや?」と思うのは、これまで「ヒッチコック的」といわれる映画を撮ってきた、たとえばブライアン・デ・パルマのような作り手のコメントは収められず、前述の三人のほかアルノー・デプレシャン、リチャード・リンクレイターといったあまりヒッチコックと結びつかない作風の人たちの姿が収められていることで、まあ、同時代的なネーム・ヴァリューから選ばれただけかもしれないが、それでもそのこと自体が「ヒッチコックの映画術」の普遍性をあらわすようではあり、これはこれで良いという気分になる。
もちろんそれらの「愛」がそそがれる対象として、ヒッチコック作品もたっぷりと引用されていくので、この映画を見終わる頃にはあれもこれも見直したくなっていることだろう。またこの作品の中では、録音テープの一部分を聴くこともできる。ヒッチコック節の語り口調に、『ヒッチコック劇場』を久しぶりに見たいという気持ちにすら火を点けられた次第である。
公開情報
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12 月10 日より 新宿シネマカリテほか全国順次公開
配給:ロングライド