たしかに“廃墟趣味”は、“心霊スポット趣味”とも“工場萌え”ともつながっている。通底しているのは、「人間中心ではない世界の風景」を求めるという点だろう。
いや、「人間中心でない世界」といってしまうとほんの少し飛躍しすぎであって、「かつて中心に存在した人間が今はもういない」という風景のもたらす清々しさというほうが正確である。それは露悪でもなんでもなくて、ストレートな実感にすぎない。
なぜ爽やかで心癒されるのかと考えてみたことがある。それはやはり、個々人の意志とか人格とかその集積としての社会とかなんとかそういうものが、ある圧倒的なものの前では完全に無力であるという事実を実感させる風景だからにちがいない、というくらいのところまでしか辿り着かなかったが、この場合の「ある圧倒的なもの」とは“母なる自然”のように人間の願望を投影したものではなく、ごくごく単純に“時間”を指す。
「時のもたらす破壊の前では、無機物も有機物も等しく無力」という事実を体現する風景が、日々の厄介事をふと棚上げしてくれる。この単純な仕組みに、高尚なものはなにもない。とてもシンプルでわかりやすいエンターテイメントである。
4年をかけて世界70カ所以上で撮影してきた廃墟の映像によって構成されたこの映画もまた、そういう意味では誰もが楽しめる娯楽映画である。事実、映像と音のみによって出来上がっているこの94分という時間の流れの中で、退屈を感じる暇はない。
『アイ・アム・ア・レジェンド』(07)を思わせる自然に還りつつある“福島”の町中から幕を開き、お馴染みの「ブルガリア共産党ホール」、「軍艦島」の風景を挟みながら、目に見え、耳に聞こえるものに関する一切の補足説明はなく、映画は進む。音楽も言葉もない。
時折静かに溶暗して、章の切れ目というか息のつきどころを示しはするが、切れ目と切れ目の間に収められている風景がなにがしかのテーマや地理関係によって括られているのかどうかははっきりしない。
ただ、人類がいなくなった後の景色が目の前に次から次へと現れては消えていくのである。とはいえ、もちろん“撮りっぱなし”ではない。スクリーンを見つめるうちにいやおうなく鋭くなる聴覚は、編集の痕跡を聴き取るだろう。ランダムに聞こえるようでも、比較的大きな周期でのループが感じられたりする。
建造物が雲の中に隠れるといったレベルでの加工はもちろん明らかなのだが、実はそれ以上の繊細かつ驚くほど大胆な画像処理もおこなわれていたのだという。監督自身も、「思い描いていたヴィジョンは、とてもフィクションに近いものでした」と語っている。
水の流れが映画全体を貫く。それはちょろちょろさらさらいう音だったり、壁面にゆらめく波紋だったりするが、目には見えなくてもどこかでいつも水が流れている。流れていないときでも、存在は感じられる。水は、風の音というかたちをとって出現することもあるし、画面を覆う白い雪になることもある。それらがすなわち、時の流れそのものということでもあるのだろう。
こうした重層的な細部が、数多ある“風景萌え”ものとは一線を画しているのだが、それでも廃墟へのフェティシズムにブレはない。そしてそのフェチ感覚によって、今まさに廃墟になりつつある“福島”の風景を捉えるという根本姿勢も正しい。破壊後の風景が人の心を慰撫することもある、という単なる事実を提示し得ているのだから。
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