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風景を見つめることと、風景の一部となること

レイモン・ドゥパルドン+クロディーヌ・ヌーガレ
『旅する写真家
レイモン・ドゥパルドンの愛したフランス』

文=

updated 09.05.2017

マグナムの元副代表、映画を撮ることもあるフォトジャーナリスト、という程度の極端に少ない予備知識を持ってこの作品を見ると、実はそれすらを必要としない、見事に機能するレイモン・ドゥパルドン入門映画だった。

プロデューサーと共同監督に名を連ねているドゥパルドン夫人でもあるクロディーヌ・ヌーガレが、アーカイヴにこもって未使用のフッテージを発掘する一方、本人はキャンピングカーでフランス全土を移動しながら大判カメラを用いた撮影を続けている。

ちょっと気になる町角や道路端に止まり、シャッターを切る。大判ゆえに、通り過ぎながらさっと盗むように風景を切り取るのではない。三脚の上に鎮座したカメラと共に、最適な瞬間をじっと待ち受けてから、1秒間の露出をする。

発掘されたフッテージの方には、60年代とおぼしきパリの町角の瑞々しい映像の後に、アフリカの戦場での倫理の転倒した日常の時間があたりまえの顔で登場したりする。また、死のニオイに酔ったようにおしゃべりを続けるパリ市の警官たちや、刑事裁判での取り調べの様子が見られたりもするだろう。すべての断片が興味深く、これが不使用だったアウトテイクなら本編はさぞ面白いに違いないと確信させられる。

時間をかけて風景を見つめることと、風景の一部となって目の前で展開される現実に目をこらすこととが、ひとりの人間の中で同居し同時進行的におこなわれてきたのである。

12歳にして中判カメラを手にして以来ほとんど独学で写真術を身につけ、20歳になるころにはもう写真家を生業としていたという。「パパラッチ」と呼ばれる仕事の先駆けをこなしていた時期もあるし、1964年にはオリンピックに沸き立つ東京を訪れてもいる。遠く離れた土地だけではなく、かつてヴェニスにあった荒れ果てた精神病院の内側を、映画というかたちで人びとの視線に問うたこともある。

だが彼を最も熱く惹きつけてきたのは、「砂漠と女性」だという。レンズの先には、若き日のヌーガレ自身の姿も含まれる。かと思えば、そのヌーガレが8ミリで撮影したという、『緑の光線』(86)撮影現場でのエリック・ロメールと女優たちの、最初期のヌーヴェル・ヴァーグ短編を思い出させる魅力的な一場面が挿入されもする。

ところで、これだけ世界中を移動してきているのにもかかわらず、ドゥパルドンはフランス語以外を話さないのだという。地の果てと庭先は、彼の中で等価の風景として一続きに世界を構成しているに違いない。その感覚こそが、けっして声高に言語化されることはないものの、公正さの感覚をしぶとく保持する彼の視線のあり方を支えているのだろう。

公開情報

9月9日(土)よりシアター・イメージフォーラム他全国順次公開
公式HP:tabisuru-shashinka.com
© Palmeraie et désert – France 2 cinéma