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こちら側にとどまる

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
『午後8時の訪問者』

文=

updated 04.10.2017

高速道路と川と味気ない建物。こうした典型的な郊外の風景は、たとえば空港に降りたった旅行者が、目的地である大都市圏に至るまでの車窓から疲れた視線をぼんやり投げかけはするものの、ホテルに着く頃にはもう頭の中から消え去っている種類のものである。なかったことにしたいとすら思わせず、最初から存在しないも同然の景色といえるだろう。

そんな寒々しい地区の一角に、主人公ジェニー(アデル・エネル)の勤める診療所がある。患者は近所に住む貧しい住民たちで構成され、夜間の治安も決して良くはない。

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ある夜午後8時過ぎのこと、ベルが鳴る。診察時間はとうに終わっている。「感情に流されすぎるな」と戒めた直後だったこともあり、応対しようとする気の弱い研修医ジュリアン(オリヴィエ・ボノー)を、ジェニーは厳しく止める。

それは何者かに追われていたひとりの少女であり、身元不明の死体となって診療所からほど近い川岸で発見されたという知らせが、翌日もたらされる。警官の求めに応じて診療所の監視カメラを確認すると、たしかにひとりの黒人女性の助けを求める姿が映っている。

一方で、これまで老医師の手助けをするかたちで診療所に勤務してきたジェニーだが、ようやく大病院に引き抜かれ輝かしいキャリアの第一歩を踏み出そうとしていることも、われわれは知らされている。大病院には先端的な設備があり、優秀なスタッフが揃い、なによりも患者の質もよいであろうことは、説明されなくてもわかる。

結論からいってしまうと、あいかわらずダルデンヌ兄弟が誠実なのは、大病院への栄転が決まっている若くて優秀な医師が、“下町の診療所”で“貧乏だけど温かい地域住民と患者たち”と接する中で、“出世”とは違う価値を見いだすという口溶けの良いお話にまとめ上げない点である。

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なにしろ診療所でただひとり患者に接しているジェニーの毎日は、犯罪者や犯罪すれすれの行為に手を染めているかそいう企みを抱いている連中、もしくは貧困の中で自業自得と呼びたくなるような悪習慣から抜け出せないため手ばかりかかるような患者で朝から晩までぎっしりと埋まっているのである。

ひとことでいえば、報われない仕事なのだ。平気でウソをつかれるし、ときには診察室で身の危険を感じることもある。定期的な往診以外に、突然呼び出されることもあり、買い物にも行けない孤独な患者のためにソーシャル・ワーカーに話をつけるといった周辺的な事務仕事も山ほどある。それでも、感情を漏らさないクールな表情を保ったまま、黙々と着実に仕事をこなしてゆくその姿は、プロとしてカッコイイとすら感じられるだろう。

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そういう日常業務の中で、時間外に診療所を訪れる患者を無視したところで誰が彼女を責められるだろうか。実際、本物の緊急事態であればもっと粘ってベルを鳴らし続けるだろうという彼女の判断を、非難する者はひとりもあらわれない。ただひとりジェニー自身だけが、その理屈を受け入れることができないのである。

扉を開けていれば死ななかったのかもしれない。ほんらいの自分であれば扉を開けていたのに、意地を張るようなかたちで助けの手を差しのばさなかったのみならず、自分の叱責したジュリアンは医師としての将来を悲観して田舎に帰ってしまった。少女を救い得た優しさを持つジュリアンが医師とならなければ、救われない命がさらに増えるに違いない。

というふうな思考が言語化されるわけではないが、ジェニーは少女の写真を携帯に収め、誰に頼まれたわけでもない調査をはじめる。それは正義を求める気高い行為ではなく、彼女にとってやむにやまれぬ衝動でしかない。

そして調査を続ければ続けるほど、胸をえぐる瞬間がやってきて、彼女もまた鋼の意志を持つ人並みはずれて強い人間というわけではないことが、われわれにも理解される。職人の顔を外したその内側には、ジュリアン同様脆くやわらかい部分が隠されている。

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ダルデンヌ兄弟の語り口は、もともとノワールというジャンルとの親和性は高い。たとえば、気味の悪いオヤジがひとりの少年をストークするところからはじまる『息子のまなざし』(02)にしても、冒頭の緊張感はノワール以外のなにものでもなかったし、今作はより明確にジャンルの中に足を踏み入れたように見える。

だが、特に前作『サンドラの週末』(14)にはっきりと顕れたものと同種のストレートな優しさに支えられたこの作品では、倫理的境界線の向こう側に行ったままとなるノワール的な結論ないし美学の真逆ともいえる、境界線のこちら側にギリギリだがはっきりとどまるという決断のありかたを示す。それは、今われわれが生きる社会の中ではより困難なことだし、より大きな勇気が必要とされることでもある。“弱さ”の側につくというより、“弱さ”が故に可能となる生き方のひとつのかたちだろう。

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ところで、『サンドラの週末』でのペトゥラ・クラークのチャーミングな使い方を踏まえて、今回はどういう風に音楽を挿し込んでくるかと身構えていたら、ちょっと隙を突かれたかんじだった。あたりまえのことだが、劇伴を使わないのは美的スタイルのためではないのだとあらためてわかったりする。

公開情報

4月8日(土)より、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー!
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