ベタなアイディアを徹底して展開し、ありきたりに到達できる地点のほんの少し先にまで物語を持っていく。その力が、デイミアン・チャゼルの作品にポピュラリティをもたらしているということなのだろう。
『セッション』(14)における、音楽演奏を上達させるための努力にかける時代錯誤的なまでの熱量というものは鬼コーチの存在とともに、『巨人の星』をはじめとするスポ根ものでさんざん目にしてきたものだった。火を点けられた若き才能が、常軌を逸したしごきに耐えることでより良い演奏に向かって一歩ずつ前進していくというところまでは馴染みの展開である。
しかしそこに、「この鬼コーチ、ほんとうは見たとおりの単なるサディストではないのか?」という謎を挿入した点は新鮮だった。それでもなお、「鬼コーチの実は優しい素顔」というありきたりな可能性をちらつかせながらその度にひっくり返し続ける。
しかも「やっぱりあいつはサイコパスだったのか」と誰もが確信するギリギリの頃合いを見計らって、おそらくは鬼コーチ自身の想定にすらなかったに違いないと感じられるほど短い最後の一瞬を提示することで、観客にカタルシスを与えながらそれでも両義性を残したまま幕を下ろすというやり口は、きわめて巧みなものだった。
ではこの作品ではどうなのか。音楽根性ものの後ミュージカルというのは、とてもわかりやすい。「夢を追いかける若者ふたりの物語」というのも馴染みの筋書きである。
ここで徹底されているベタな要素はそれだけではない。これまでないがしろにされてきたためむしろ新しく感じられたりもするのだが、それはミュージカル・シーンにおいて、踊り歌う登場人物たちを時間と空間の中で連続したものとして見せるという撮影方法というかたちで徹底されている。つまり、いたずらにカット数を増やさず、俳優たちの身体の動きがもたらす悦びの方に、映像を奉仕させるそのスタイルのことである。
近年のミュージカル映画ではどういうわけか、群舞シーンであろうが主人公たちのソロであろうが、動きが激しかろうが滑らかであろうが、いつでもこまかくカットが割られ、運動する身体を眺める気持ちよさが生まれる端から冷水をかけてまわるようなスタイルのものが多かった。おそらくは、凡庸な才能の持ち主が戯曲を映画化するときに、ついつい時空を拡げいたずらに“映画的表現”を持ち込もうとしがちであるのと同様の現象が、起こっていたのだろう。
それが本作では、カメラはいつでもいちばん気持ち良く眺められる距離を保つ。長廻しでひとつのシーンを切れ目無しに見せるのは、その手法自体が前面化しては元も子もないが、ここではそれが見つめることの快楽に奉仕していて、しかもそれが十分に機能している。
くわえて、“人工的な夢の世界”と“自然でリアルな画作り”との間の慎重に考え抜かれたバランスが、一般的なミュージカル映画における、歌がはじまった途端に物語が停止することの退屈さから映画全体を救ってもいる。単純に、音楽シーンでは人工的になり、ドラマではリアルになるということではない。それぞれの中で、両方の手ざわりが入り混じるのだ。結果、全体としての陶酔感が、もう一段強化されたという印象を与える。
お話の次元でいえば、ここでもまたベタな展開を徹底した先に出現する、思いがけない切なさと一体化したハッピー・エンドに到達して見せている。
そういうわけで、聡明な選択を重ねたチャゼルは、またしても成功したのであった。
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2月24日 TOHOシネマズみゆき座他全国ロードショー