人びとが教会に集まっている。日曜のミサという雰囲気ではない。順番を争って殺気立っていて、「早くから並んでいたのに」とか「遠くから来たのに」とか「今日はここまで」というような言葉すら飛び交っている。彼らは、一人の神父による悪魔祓いの儀式に並んでいたのだ。ドキュメンタリー映画は、その風景からはじまる。画面外からのナレーションや補足説明はないが、「エクソシスト教会の72時間」と名付けたくなるような定点観測型作品である。
「悪魔に憑かれた」という人びとが、緑色の粘液を吐き出したり首をぐるり回転させたりするわけではない。だが聖水に悲鳴を上げたり、神父に触れられて苦悶の叫びをあげたりと大騒ぎする。大勢を集めての儀式の途中でそんなことが次々に起こると、ちょっと吹き出してしまったりもするだろう。
要するに、「頭の調子の悪い」ひとたちが救いの手を求めて集まってきているということなのだ。彼らがどういう「症状」を抱えているのか、詳しく解説されることはない。だがひとりのスキンヘッド風の若者は、自分は信者ではないが、ここに来ると少し「まし」になるんだという意味のことを漏らしている。
そして、儀式を受けたからといって彼らがケロリと「治る」こともない。調子の良い日と悪い日があるようだし、すっかり「恢復」したように見えるのにまたすぐ「憑かれ」はじめている(ように見える)少女もいる。
だがしかし、調子が悪くて困っている時には、「治る」ならどんな手段でもいいと考えるものだ。「悪魔祓い」に殺到する人びとの姿を「愚か」と切り捨てられる者はいないはずだ。健康診断の「要再検査」くらいのことで、なにかに祈ってしまったりするのだから。
かつて、「治るならなんでもいい」という願いと、「どんなものだろう」という好奇心とが半々というより六対四くらいに混ざり合った気持ちで、「困っている人」を伴ってある宗教施設を訪れたことがある。そこにはたしかに、「治った」という人たちがいた。「奇跡的な恢復」を遂げたという信者たちである。肉体に生々しい「病の痕跡」を残す男性もいた。だが、というよりそれ故に、そのための代償というか、自分自身の頭の中で様々なものを留保することで飛び越えなければならない隔たりは大きく、それきりになった。
一方、この作品の中でおこなわれているカタルド神父による悪魔祓いの儀式は、個別セッションは一般的な心理カウンセリングに近いようだし、集団セッションはただ「効く人間には効くようだ」という程度に敷居が低い。それこそがカトリック教会の世俗性なのだろうし、「このくらいで治るなら」と訪れる気持ちもよくわかる。だが同時に、そのくらいの気分では根本的には治らないだろうなとも感じる。そこで、カタルド神父という一人の人間の肉体の持つカリスマめいたものが必要になるのだろう。
映画は、そういうことが徐々に浮かび上がってくるような作りを持つ。それゆえ残念なのは、教会を訪れる「患者」たちの物語がさほど追求されないことと、もし悪魔祓いへの需要が世界中で高まっているのであれば、最後に映し出される「エクソシスト養成セミナー」へ世界中からの参加者たちが、それぞれの国へと帰ったその先で対峙する光景も見たかったということなのだ。もちろん、人間カタルド神父の物語にも強く興味をそそられるものの、映画がその好奇心を満足させることはない。
とはいえ、分析や解説することがこの作品の目的ではないとすれば、そうした四方八方へとのびてゆく補助線を示し得ただけでも充分な成功といえるだろう。
公開情報
11月18日より渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
公式HP: www.cetera.co.jp/liberami
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