MOLLY'S GAME

ゲームの外側

アーロン・ソーキン
『モリーズ・ゲーム』

文=

updated 05.09.2018

ふとしたことをきっかけに、超富裕層を顧客とするポーカー・ゲーム場のアシスタントとなった20代半ばの女性、モリー(ジェシカ・チャステイン)。それが結果的に、人生二度目の挫折から復帰するための道となる。

モーグル選手のモリーは、物心ついて以来、父により虐待に近い厳しさで唯一の価値として勝利の意味をたたき込まれてきた。最初の挫折は、競技中に脊柱を折るというかたちでやってくる。12歳の時のことだ。それでも側弯症の大手術を経て復帰し、女子モーグル北米3位にまで上りつめる。ところがオリンピック出場を目前にして、再び転倒する。それが二度目の挫折であり、競技人生の終焉をもたらした。

勝ち負けの尺度しか持たない人生を生きて来たモリーは、完全なる素人として手伝い始めたポーカー・ゲーム場においても、たちまちのうちに商売のコツを呑み込み頭角を現す。運営に欠かせないスタッフとして、一部の顧客たちからは経営者以上の人望を集めるようになるのだ。だがそのことも災いし、突如解雇される。

その状況でのモリーの次なる一手は、もちろん逆転勝利を目指したものだ。つまり、旧雇用主の抱えていた主要な顧客をすべてさらい、独自のポーカー・ゲーム場を立ち上げるのである。やがてそのポーカー・ゲーム場をも潰される事態に至ると、今度は土地をLAからNYに変えて、かつてない規模のゲームを始める。

事ほど左様に勝ちにとりつかれたモリーの歩みは、さまざまな状況が重なり合う中でFBIによる逮捕へと至る。またしても大きな挫折に見舞われたわけだが、それでも自らの回顧録を出版し、それがベストセラーとなり、挙げ句は映画化されるというかたちで成功への前進を止めていない(そう、書き忘れたがこの作品もまた、〝事実を基にしている〟)。

父の望む成功だけを目指した前半生で挫折を向かえた後、今度は父が望まないどころか嫌悪するであろう合法と非合法の狭間に広がるグレー・ゾーンでの成功に猛進したということになる。これは臨床心理士である彼女の父(ケヴィン・コスナー)の分析を待たずとも、ひとつの症例と言うほかないだろう。

もちろん、彼女の物語が多くのアメリカ人の心を捉えたのは、〝モリーのゲーム〟はとりもなおさず〝アメリカ人のゲーム〟という症例に他ならないからでもある。何人たりとも、才気と努力によって成功を目指さなければならない。裏返せば、たとえグレー・ゾーンの中であろうとも、機会を見いだした人間がそれを活用しないのは、罪ですらあるのだ。

加えてこの〝モリーのゲーム〟においては、モリー自身がある程度以上の性的魅力を持つ女性であること、しかしながらその力だけは利用することなく勝利の階段を上りつめた(とされている)点もまた、昨今求められるフェミニズム・ポイントを稼ぎ、観客の心をくすぐる要素のひとつとなっていることは指摘するまでもない。

もちろん、かならず挫折の訪れる種類の成功とは、いったい何なのだろうと立ち止まって考えてみることはできる。犯罪すれすれの商売を成功させたところで、果たして勝利と呼べるのだろうかという倫理的な問いかけではない。

結局のところ〝モリーのゲーム〟とは、そもそも勝利ではなく挫折によってのみ完結するひとつのサイクルなのだ。ひとつの敗北の次に目指す勝利もまた、同じ〝ゲーム〟の中にある。このサイクルの外側にあるかもしれない、まったくルールの異なる、ということは勝利の持つ意味や形のまったく異なる、あるいは勝利がもはや大きな勝ちを持たないかもしれないもうひとつの〝ゲーム〟を思い描けない点にこそモリーの、ということは我々を含む多くの人間を呪縛する病があり、真の敗北がある。同じ〝ゲーム〟の中でどれだけあがいたところで、彼女と我々の中に病の根を植え付けた成功と勝利の体系を強化するだけなのだ。

とはいえ、それはとりもなおさず〝モリーのゲーム〟には我々を惹きつける力があるということだし、この作品はその力を巧みに映画の面白さに変換し得たともいえる。脚本としてはアーロン・ソーキンらしい饒舌体がうまく機能しており、結果のわかっている物語を巧みに楽しく見せる映像表現にも長けている。それでいて、スコセッシのような恒常的な躁状態の力だけに頼らない点にもまた、ソーキンの才気が感じられはしないだろうか。もしかすると〝ゲーム〟の外側に、ほんのわずかばかり触れているのかもしれない、というような……。

公開情報

2018年5月11日(金)、TOHOシネマズ 日比谷他全国ロードショー
©2017 MG’s Game, Inc. ALL RIGHTS RESERVED.