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〝善意〟でも〝無神経〟でもなく

戸田ひかる『愛と法』

文=

updated 10.10.2018

気がつけば、〝わかってる〟はずの人が〝無神経な発言〟をしたり、それを遠巻きに眺めている自分の口をついて出かけた言葉もまたそれと同種のものに聞こえたりするようになっていた。これが、いわゆる〝政治的正しさ〟でがんじがらめになった息苦しい言説空間というやつで、トランプ的なもの言いが清涼剤として働いたのはこういう状況に対してだったのか、などと今さらながら考えるわけだがしかし、うっかり口をついて出てしまう言葉が〝無神経〟なら、そういう言葉を紡ぎ出す思考もまた〝無神経〟だという事実を否定しきることはできない。

サッカーのワールドカップでフランスが優勝した際に、トレヴァー・ノアがその勝利を導いたチームの「アフリカ(性)」を祝福すると、駐米フランス大使から正式な抗議状が届いたのだという。ノアの番組『The Daily Show』をYouTubeで見てみると、「アフリカ出身の両親から生まれた選手たちもまた紛れもないフランス人であり、フランスの豊かな文化的多様性を体現している。彼らをアフリカ人と呼ぶことで、あなたそれを否定しているのだ」というような内容だったらしい。

一見すると、〝リベラルな善意〟に基づいていた話に聞こえる。ノアもまた、人種差別主義者たちが、「おまえらはフランス人じゃない」という言葉を使う現実については認めている。また、例えばアメリカの極右が、「自分たちとまったく同じこと言ってるのに、トレヴァーが言うと人種差別にならないのか」と非難するかもしれないが、「そんなのはあたりまえ。言葉ってのは文脈がすべてなんだから」と切り返すだけだと話す。

そして、フランス大使の書簡から抜け落ちているのは、ワールドカップでフランスに優勝をもたらす〝良いアフリカ人〟だけが〝フランス人〟と認められているのではないかという視点であり、なぜ「フランス人でありアフリカ人でもある」というあり方を認められないのか、とノアは指摘する。ちなみに彼自身は南アフリカ出身のコメディアンで、アメリカで活動している。母親は黒人、父親は白人だ。

頭脳の切れるコメディアンらしく、こうして小気味よく議論が展開されるのだが、要するにありていに言ってしまえば、〝リベラルな善意〟は誰がどう示すかによってただの〝無神経〟にも〝害悪〟そのものにもなりうるということになるだろう。

さて、このドキュメンタリー『愛と法』は、大阪に住むひと組の同性夫婦、カズとフミを中心に据える。弁護士である二人は共に事務所を営み、社会的に弱い立場、あるいは周縁的な立場に置かれている人々からの依頼を数多く引きうけている。

その姿からは、この社会を、自分たちを含む周縁的な存在にとってもより良い場所にしたいというストレートな善意と、法律はそのためにあるべきものだというアツい信念が伝わってくる。だが、それがいつも報われるわけではない。講演会で憲法を説けば、「法律的な根拠がなければ〝家族〟ではないはず」とにこやかに絡まれたり、裁判官たちの態度のひどさに絶望したりもする。

彼らの携わる裁判として印象的に登場するのは、高校教師が国歌斉唱時に起立しなかったことで受けた減給処分の取り消しを求める「君が代不起立裁判」、女性器をモチーフに作品作りをしたことから「わいせつ物陳列」などの罪で起訴されたアーティストの「ろくでなし子裁判」、様々な事情から民法上の規定を満たせず「無戸籍者」のまま生きざるを得なかった人間の戸籍取得を求める「無戸籍者裁判」などがある。

すべて、この映画を見る限り弁護士二人の守る立場が正しいとしか思えないものばかりで、特に「無戸籍者」に関しては異論の持ちようがないだろう。それでも、「国歌斉唱の時ぐらい立てばいいじゃん?」とか「そもそも女性器をかたどったアート作品というコンセプトそのものが面白くない」とか「戸籍がないのは、社会というより親がひどいだけじゃん」という〝無神経〟な言葉はすぐ思い浮かぶ。

それに対するあり得べき応えは、「起立しないだけで処罰されるような社会/組織はイヤじゃない?」、「作品が面白いか面白くないかは別の問題で、自分の体の一部をかたどったものを作っただけ逮捕されるのはおかしくない?」、「事実として存在している人間が戸籍の取得を求めているのに、それを与えないのはおかしくない?」といったものであって、それを全部まとめると、「人と違うことで社会的に罰せられるのはおかしくない?」ということになるだろう。そんなことを改めて素朴に感じさせるのが、この映画なのだ。上述のトレヴァー・ノアに戻るなら、この社会においては「○○でもあり日本人でもある」という「○○」の部分が狭すぎる、もしくは存在を許されていないのではないかという疑問を投げかけているということになるだろう。

ただし、もしこの作品が〝リベラルな善意〟に基づいた〝正しさ〟だけを際立たせ、映画そのものが〝試金石〟となるような、これを見てどう感じるのかによって観客の政治的傾向が計られるような内容に仕上がっていたとしたら、何の力も持ち得なかったに違いない。そんな映画を見るのは、そもそも〝賛同者〟だけのはずだからだ。

ところがここでは、上述のようなメッセージと素朴なエモーションが重なる地点に、この映画のクライマックスがやってくる。それが何なのかについては記さないが、そこでは、〝賛同〟するかどうかということがどうでもいいことになる。それによって、単なる記録でも〝善意〟や〝無神経〟を刺激するだけの作品でもなくなっているのだ。

公開情報

大阪 シネ・リーブル梅田、渋谷 ユーロスペースにて公開中ほか全国順次ロードショー
公式HP: http://aitohou-movie.com/
©Nanmori Films