東京の東側に住んでいると、新宿や渋谷を通る山手線の孤よりも西側には、「境界線の向こう側」という感覚がある。彼の地の持つ文化的な豊かさに対するやっかみも多少はあるに違いないが、あえて不毛の地に住む面白さを知らないわけでもない。結果的に、用事がなければ足を踏み入れなくなる。
だから、井の頭公園の深々とした広がりには、いつ訪れてもちょっと動揺させられるようなところがある。そこは、切り取られ保存された自然そのものであるわけだが、それ以上に江戸時代以降に埋め立てられ、空襲や震災のたびに更地に戻ってきた土地だけがもつある種の清々しさとは真逆の、むせかえるような人間の気配の堆積する場所でもある。なにしろ、1917年に「恩賜公園」として一般公開されてから100年が過ぎるというのだから。
この映画に登場するのは、公園となってちょうど50年ほどが過ぎたころに録音されたある歌の断片と、そこからさらに50年が過ぎた現在においてその曲をあるいは補完し、あるいは再解釈することで完成させようとする若者三人の姿である。
純(橋本愛)は、ぐずぐず屈託するうちに卒業に必要な単位を落としそうになっている大学生で、公園に面したアパートの一室に住んでいる。ある日、ベランダの下にハル(永野芽郁)が現れる。50年ほど前に同じアパートの同じ部屋に住んでいた女性を探している。最近急逝した父が、どうやら昔つきあっていたらしく、自分は父とその女性についての小説を書きたいのだとまくしたてる。手にした古い写真の中には、たしかに、そのアパートのベランダに佇むひとりの女性の姿がある。
その女性、佐知子の住所はすぐに見つかるが、一足違いで他界した後であることが判明する。だがその課程で佐知子の孫トキオ(染谷将太)と出逢い、トキオは遺品の中に一本のオープンリール・テープを見つける。それが、50年前に作られつつあった曲の断片(出だし)だったというわけだ。
純は、かつて子役として注目を浴びた後、いろんなことに手を出していっこうに花開かないまま。トキオは音楽好きが昂じてスタジオでバイトをしているが、ラップはできるけど楽器は弾けない。そしてハルは前述のとおり小説を書こうとしている。こういう三人が揃えば、それぞれの“夢”の結実として、演奏、作詞、プロデュースといったような役割分担で50年前の曲を完成させ、それが人々の評価を得て人生の次の段階へ進むという風になるのが普通の流れだろう。
だが、この映画の焦点はそこには合わない。ならば、50年前の恋人たちの物語がもう少し鮮明に立ち上がり、それが現在と交錯するのだろうか。たしかに、死せるふたりの若かりし日は映し出されるし、ハルは奇妙なかたちでその中に参加する。だが、映画はその道筋をとことん展開させない。もちろん、過去の恋愛に重なるようにして現在の恋愛が育つわけでもない。
桜の下で自転車を漕ぐ橋本愛という映画的にはきわめて過敏になりかねないシーンで幕を開いたり、風が吹いて近過去の写真が宙空に吹き上げられたら亡霊のようにハルが現れ半世紀前の風景を蘇らせるというさまざまな読解を誘発する記号をちりばめたりと、何食わぬ顔でいろんなことやってみせるがその先には立ち入りすぎない。
そうしたことのひとつひとつが、ただの雰囲気モノでも、ありきたりな青春モノでもない、軽すぎも重すぎもしない不思議な手ざわりを残す。そしてそれは、決して不快ではない。ちょっと虚をつかれたような気分になって、あらためて、「パークス」と「公園」が複数形になっているあたりからもう一度読み直してみようかと考える。
公開情報
4月22日(土)よりテアトル新宿、
4月29日(土)より吉祥寺オデヲンほか全国順次公開中
公式サイト: http://parks100.jp
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