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持続する祝祭の記憶

チュス・グティエレス
『サクロモンテの丘〜ロマの洞窟フラメンコ』

文=

updated 02.19.2017

90年代前半の頃はまだアルハンブラ宮殿ものんびりしていて、何の準備もなくぶらぶら歩いて行っても飽きるまで時間を過ごせたものだった。それでも当然のことながら有名観光地ならではの空気はあって、宮殿に向かう途中で、ひとけの少ない方に進んでみたいという気持ちをかき立てられた。

宮殿から見るとダーロ川を挟んだ北側の対岸にあたるその道のさらに奥からは、面白そうな気配が濃厚に漂ってきていた。それがサクロモンテ地区のニオイだったということは、この映画を見てからグーグルマップで検索して、はじめて知った。

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サクラモンテには古くからヒターノ(ロマ族)が多く住み、「洞窟フラメンコ」の“聖地”のひとつとして多くのアーティストたちを輩出してきた。ところが1963年のこと、大洪水によって住民たちは離散し、コミュニティは消滅する。

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このドキュメンタリー映画は、洪水以前のサクロモンテを知るフラメンコ・アーティストたちの証言から、在りし日の楽園めいた景色をわれわれの目の前に現出させてみせる。経済的な貧しさとしたたかな生活力、そして音楽に彩られまた支えられた豊かな共同体は、外部の人間からすれば“迫害”の対象でもあった。

そうした風景は、中上健次における「路地」や、LAのダウンタウンに隣接して存在していたかつての「チャベス・ラヴィーン」(いかさまめいた“再開発”によってドジャー・スタジアムとなった)を思い起こさせるだろう。  サクロモンテは一時期ゴースト・タウンと化し、無人の洞窟を利用する得体の知れない無象無象を吸い寄せ危険な地区となっていた(数年前までは、グラナダの地図にサクロモンテという地区は存在すらしていなかったのだという)。

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70年代の終わり頃から少しずつ人々が戻りはじめる。80年代からは、この映画の案内人であるクーロ・アルバイシンのような人々が、フラメンコをショーとして見せるサンブラ復興のために奔走してきた。

1962年にグラナダで生まれた監督グティエレスは、夜遊びをするところとして十代の頃にはじめて足を踏み入れたのだという。80年前後のことだっただろう。ちなみに、クーロの踊る姿を最初に見たのは、12歳の時だった。以来、彼はグティエレスの中で「特別な人間」であり続けたのである。

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映画はクーロの導きによって時間軸を遡り、町の風景と古い住民たちをわれわれに見せてゆく。高齢のアーティストたちの中には、映画の完成を見ずに亡くなった者もいる。洪水によって破壊されたコミュニティの記憶が、今度は時間の流れによって完全に喪われるその直前の姿が記録されているというわけだ。

ところで、ここに登場する女性たちはおどろくほどあっけらかんとどぎつい下ネタを話し、歌う。これまで知らなかったフラメンコの魅力に開眼させられた気持ちにもなったが、それにしても彼女たちの全身からは“あけっぴろげな文化”と片付けてしまえない強度の自由さが放出されているように感じられる。

「女性でありヒターナであるという、二重に差別を受ける存在であったのにも関わらず自由でありえた」要因について、監督はこう分析する。ひとつは彼女たちがフランコ体制の終焉という歴史の特別な瞬間を比較的若い時期に生きたということと、もうひとつは彼女たちがアーティストとして自立した人生を送らなければならなかったこと。これらふたつの条件が重なり、特別な自由さが獲得されていったのではないかと。

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映画を貫く縦の骨格として、洞窟でのパフォーマンスが収められている。老若男女のアーティストたちが集い、次から次へと歌、踊り、演奏を披露するのである。「予算の都合上、朝から晩までかけてたった一日で撮影した」のだというが、そのおかげとしか思えない祝祭の時間の持続する感覚が、この作品を一本の映画として成立させている。

ところで、演奏とインタヴューと町の風景という構成は、もちろんヴィム・ヴェンダース『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(99)を想起させる。監督もまた、「音楽ドキュメンタリーとしては『ブエナ・ビスタ〜』が好き」と語るが、「似すぎないようにするには苦労したのでは?」というちょっと意地の悪い質問をしてみると、「予算の桁が違うから似せようたってムリ!」と笑い飛ばしていた。

SONY DSCチュス・グティエレス監督

公開情報

2017年2月18日(土)より、有楽町スバル座、アップリンク渋谷ほか全国順次公開