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乾いた合わせ鏡

マッテオ・ガローネ『五日物語 3つの王国と3人の女』

文=

updated 11.24.2016

原作は『ペンタメローネ「五日物語」』と呼ばれる、ジャンバティスタ・バジーレによって書かれた17世紀の民話集なのだそうだ。シャルル・ペローやグリム兄弟といった人々が後にそこから、「長靴をはいた猫」「シンデレラ」「白雪姫」といった物語の原形を取り出したのだという。1日につき10話×5日間で50話、それに加えて導入部の1話で構成されている。

この映画では、そのうち三つの物語を見ることができる。物語は別々の場所で独立して展開されるが、同じ時代の接し合う地理関係の中で起こっていたことが最後にわかる。これはどうやら、原作にもある各話間のつながりらしい。

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ところで本作の監督は、『ゴモラ』(08)のマッテオ・ガローネである。ナポリの犯罪組織の内幕について書かれたノンフィクション作品『死都ゴモラ』を、乾いたスタイリッシュさで映像化してみせた映画だった。「乾いた」というのは「リアルな触感を醸成する禁欲的なスタイル」ということで、「スタイリッシュ」というのはその「乾かし方」が審美的ということを意味する。物語が描き出した「真実」そのものは、すでにいろんなところで目にしてきたものだったが、そこには「本物」の手触りがあった。

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その「本物の手触り」を追求したガローネが、「昔話」といういわば「ファンタジー」に手をだしたわけで、一瞬「意外な」という印象を受けるかもしれない。だがよく考えてみれば、『ゴモラ』もまた結局のところ独立した五つの小さな物語が積み重なるという構造を持ち、そういう意味では今作と変わらない。そして残念ながら未見だが、その次にガローネが撮った『リアリティー』(12)は、リアリティ番組に出演した男が次第に現実と非現実の境目を見失っていくというお話らしい。だから、彼のフィルモグラフィーがこの『五日物語』に辿り着くのは必然であり、それがこれまで試みてきたことの集大成でもあるということなのではないかと推測されるのだ。

実際これら三つの物語には、ファンタジー的な要素が多分に含まれているが、その映像化においてはガローネらしい感覚を存分に味わうことができる。スクリーンの隅々まで神経を行き届かせ美術の細部からは決して手を抜いていないが、それでもロケーションにあるものを最大限活かし映像の加工も最低限に抑えてあることが感じられ、全体としてある種のそっけなさを獲得することに成功しているのである。映像スタイル上は真逆のようでもあるのだが、その軽さがどこかパゾリーニの作品を思い出させたりもする。

こうしたコスチューム・プレイ系のファンタジーものにありがちな、華美であることがヤスさに直結しているというような、趣味の悪さに起因する視界の混濁は軽々と避けられ、映像の透明度が物語のシンプルさに比例して高度なレベルに維持されている。そしてその透明度が、ファンタジー世界全体にリアルな手ざわりを与えている。

ところでここで語られる三つのお話だが、副題にあるとおりひとまず「女性の物語」とくくることのできるものが揃えられている。とはいえもちろんそれは見る者次第でもある。

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「ハイヒルズ国の夢みる王女」のお話では、若き王女が父王(トビー・ジョーンズ)と共に城の中で生活している。父に娘への愛情がないわけではないが、彼はある事柄に関心と愛情を奪われている。それでもようやくある日、娘の希望に添い婿選びの儀式を行う。それは娘のためというよりも、彼自身の味わった密かな喪失を弔うためであるとしか見えない。そのためなのかどうか、彼自身の設定したルールによって、オーガ〈鬼〉によって王女が娶られるという、思いも寄らぬ不幸が生じてしまう。

その先では、醜いオーガの美しい心に触れて王女は幸せを手に入れるというパターンも考えられるが、ここではそうならない。あくまで「醜い者は醜い」という価値が転倒することがないまま、王女の脱出劇がはじまる。「いやいや、オーガくんがかわいそうすぎやしませんか!?」という気持ちになるのは、男性だけではないはずだ。でも同時に、「現実はそんなもん」という感触もある。

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「ロングトレリス国の不妊の女王」のお話では、ひとりの女王(サルマ・ハエック)が夫(ジョン・C・ライリー)の命を含む多大な犠牲を払ってようやく子宝をもうけるものの、その息子への過大な愛情によって不幸を招き寄せる。また「ストロングクリフ国の二人の老婆」では、ささいな勘違いから老婆を見初めた遊び人の国王(ヴァンサン・カッセル)による執拗な口説きと、豪奢な王宮生活の誘惑に負けた老婆とその妹が、凄惨な結末にいたる。

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たしかに、すべて「女性の性(さが)」にまつわるお話といえばそういえなくもない。それでも、現実から逃避する王とあわれなオーガ、母親の愛情に押しつぶされる息子、欲望剥き出しの身勝手きわまりない王という具合に、合わせ鏡にはいつも男性の姿が映し出されている。女たちと同じくらい、というよりもさらに度し難く男たちの側もまたなにかに憑かれている。しかも男の場合、どういうわけかそれを「男性の性(さが)」とはくくりにくい、という事実そのものについてももう少し考えてみたいところではあるが、そうした議論誘発性こそが原作『ペンタメローネ』の持つ力のひとつであるということなのだろうか。そして、その力を身にまとい得たこの映画が成功していることの証左でもある。

公開情報

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11月25日(金)TOHOシネマズ六本木ヒルズ他全国ロードショー
公式HP: Itsuka-monogatari.jp