思春期直後の高校時代には、ようやく幼年期の冥暗から頭ひとつ分だけ抜けだしてあたりを広く見渡せるようになったつもりになるけど、その視界はまだまだ狭くて窮屈なものであることにはなかなか気づけないものと相場が決まっている。
それでもこの世を見切ったつもりでいるから、実際にはもっと大きな拡がりをもつ世界のなかでもがいている大人たちの姿が愚かしいものにしか見えないし、大人たちにしてみても狭い世界の中でわかりきったような顔をした高校生たちはまだまだ子どもにしか見えない。だからますます高校生たちは“私”と“世界”の相克を勝手に強化して、そのなかで悶々とする。
こんなふうに、誰にでも身に覚えのある人生のある一時期を切り取ったのがこの映画である。
17歳のヒロイン、ネイディーン(ヘイリー・スタインフェルド)は、自分をイケていない存在と定義している。もちろん男子とつきあったことはない。幼なじみのクリスタ(ヘイリー・ルー・リチャードソン)とふたりだけで、ありきたりな世界の価値を転倒させたところに、自分の居場所を作り上げている。
対照的に、兄のダリアン(ブレイク・ジェナー)はスポーツのできるモテ男で、それゆえネイディーンにとっては天敵にあたる。天敵を否定することでできているのがネイディーンなのだから、彼女の世界はダリアンによって支えられているともいえる。ところがある日、たったひとりの親友クリスタがダリアンとつきあうことになり、ネイディーンの世界は瓦解する。
親友は敵となり、もはや居場所がない。ますます独善的な世界の中に閉じこもるほかなく、その結果として周囲の人間にとっては「モンスター」そのものと化すネイディーン。この映画が巧みなのはなによりも、ネイディーンの苦悩にもその苦悩の独善性にも、どちらにも共感できるように作られている点にある。
「もういいかげんここいらで手を打ちなよ」とネイディーンに声をかけたくなると同時に、「しばらく放っておくしかない」と周囲の連中にも話しかけたい気分になるのだ。そのくらいにネイディーンの独善性はかわいらしいものだし、彼女が敵視する連中にもまた悪意がない。
唯一見ていてほんとうにイラつくのは、不安定で感情を剥き出しにする母親(キーラ・セジウィック)の姿くらいなものであって、その点だけにおいてはネイディーンとダリアンに同情を禁じ得ない。しかしながら背面から物語を回転させる動力となっているのは、間違いなくこの母親なのだから、仕方がない。
さてこの手の作品の場合、たぶん身につまされすぎて「イタく」感じるのだろうと予期しながら見たのだが、実際にはそうではなかった。
それは上述のように巧みに作られているからでもあるのだが、なるほど、ネイディーンが生きているような人生の一時期を抜けだしてからもしばらくの間は、その時代をふりかえることが恥ずかしくもイタくも感じられるのだろうが、その時期も抜け出ると今度はかわいらしく思えるようになるということなのだ、と気づいた次第。
そのため、この映画に登場する人間たちの中で最も魅力的だったのは、変人教師ブルーナー(ウディ・ハレルソン)であった。若者に媚びることも、大人としての建て前を押しだすこともない。ドタバタと勝手に大騒ぎしているネイディーンを前に動じることもなく、歯に衣着せぬ言葉を浴びせたり乾いた対応をするのだが、つまりは唯一、ネイディーンをその年齢特有の限界点を含めてひとりの人間として扱ってやる大人が、この教師なのであった。
ひとりよがりに苦悩してみせる若者を前にして、これはなかなかできることではない。つい「バカバカしい」と距離を置くか、道理を説こうという無駄な努力をしてしまうものだろう。それをしないというのは、それこそありきたりな答えだが、彼がそうした段階を通り過ぎた大人である証左にほかならない。
そういうわけで意外にもこの作品は、共感できる青春時代の一幕を体験させてくれたというよりも、ちょっと魅力的な大人のありかたを見せてくれた映画なのだった。
公開情報
4/22(土)よりヒューマントラストシネマ渋谷、新宿シネマカリテほか公開中
公式HP: www.sweet17monster.com
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