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森のハッピー・エンディング

ロバート・エガース『ウィッチ』

文=

updated 07.22.2017

映画の舞台となる1630年のニュー・イングランドといえば、マサチューセッツ湾植民地が建設され急速に拡大していた時期にあたる。その流れに逆らう主人公一家の家長ウィリアム(ラルフ・アイネソン)は、共同体の外での生活を選択する。入植地の社会を宗教的に堕落したものと見なし、より清廉な生活を求めるのだ。

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厳しい自然と原住民たちの憎悪そのものでもあるような森の奥で送る、物質的には厳しくても宗教的には健やかな毎日。ウィリアムが思い描いたのは、そんな神との対話の生活だったろう。かたわらには妻のキャサリン(ケイト・ディッキー)と、5人の子どもたちもいる。

だが7人家族というその生活の土台そのものが、はじめからあやういバランスの上にあることをわれわれは知る。そこから物語がはじまる。

まず長女トマシン(アニヤ・テイラー=ジョイ)は初潮をむかえ、いわゆる「年ごろ」と呼ばれる時期にさしかかっている。そんな姉が気になって仕方のない弟ケイレブ(ハーヴィー・スクリムショウ)は、かぎりなく近親相姦的な関心を持てあましはじめている。その年齢特有のものでもあるのだろうが、交わる人間が家族しかいないという閉鎖環境がそれをさらに尖らせている。

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二人の下には、幼い双子のジョナス(ルーカス・ドーソン)とマーシー(エリー・グレインジャー)がいる。ほとんど邪悪すれすれのいたずらっ子たちで、家族の神経に障る行動を繰り返す。

そしてある日、末弟である乳幼児のサムがいなくなる。いつものように世話を任されたトマシンが、森との境目あたりであやしていたところ忽然と姿を消したのだ。狼がさらったとしか説明がつかないが、トマシン自身が半信半疑でいる。

サムがいなくなったせいでというより、母キャサリンの精神の均衡は、赤ん坊によってギリギリ保たれていたことが明らかになる。今や彼女の世界は崩壊し、子どもたちにも公平な愛情を向けられなくなる。キャサリンは一睡もせずただ祈りをあげつづけ、一家の生活は崩壊をはじめる。

しかも作物が思うように育たない。こうして環境が厳しくなればなるほど、家族の真の顔がのぞき始めるように見える。ケイレブはますます姉に性的に惹かれ、母は娘の女性性への嫌悪を深める。たくみに演出されたいくつかの場面では、トマシンが父親の手伝いをする姿からはたしかに性的なニュアンスが立ち上るように感じられるのだ。双子はそんなトマシンが魔女に魂を売ったとはやし立てる。サムを森に棲む魔女に譲り渡したのだと。

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その告発は、母に理不尽な扱いを受けていると感じるトマシンにとっては、密かな願望そのものでもあるだろう。だから、戯れにそれを肯定して見せ、双子を震え上がらせたりもする。その時にはすでに、魔女は彼らの中に降り立っているのだ。

とはいえ、そうした心理劇によるほのめかしに終始するわけではない。映画は最初から魔女の存在を映像として見せる。つまり、曖昧なところはほとんどない。両義性が追求されているわけではなく、魔女にやられる心理的メカニズムが丹念に描かれているだけとも言える。そのために、美術や言語など映画の細部における精密さが、異常なまでに磨き上げられている。そういう意味では、森の中に広がる深い暗闇が主人公たちにそういうものを見せているだけ、という視点も保持されるだろう。

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精神と肉体の両面で支えを失った人間たちがどこまでも追い詰められた先で邂逅する、救済としての魔女の存在と認めることもできる。一方で客観的には、極限状況で「キャビン・フィーバー」現象が生じ、狂信者の一家が深い森の闇に飲み込まれていったに過ぎないと考える事もできる。しかもこれは解釈の問題というよりも、両方ともに正しいとしか言いようがないのだ。

おおむね狂信者ウィリアムに象徴される人間というか大人たちの弱さと、トマシンの純真であるがゆえに危ういけなげさの対位法によって物語が牽引される。その陰惨な解決部は、どう見てもハッピー・エンディングにしか感じられないというところに、この映画の力がある。

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公開情報

7月22日(土)より、新宿武蔵野館ほか全国順次公開
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配給:インターフィルム