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きわめて巧み

マーティン・マクドナー
『スリー・ビルボード』

文=

updated 01.30.2018

ミズーリ州の田舎町エビング。町外れの道路沿いには三枚の巨大な看板が並んでいる。雨ざらしになった古いポスターの残骸があるからには、かつてはある程度の交通もあったのだろう。だが今や通る者はほとんどいない。

ある日そこに、新しい広告が掲示される。赤字に黒い縁と黒い文字。血液と服喪の印象を与えながら、三枚でひとつのメッセージを構成している。いわく、「犯されながら殺された」「なのにまだ逮捕なし?」「ウィロビー署長、どうして?」。広告主は、ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)。娘の遺体発見から7カ月が経ち、捜査に何の進展もないことに業を煮やした母親が思いついた、警察に圧力をかけるための方策だったのだ。

狙い通り、エビングには波紋が広がる。そして、田舎町の”平穏”をかき乱したことで、ミルドレッドとその息子はいやがらせを受けることになるだろう。だがそうされればされるほど、ミルドレッドの怒りと決意は尖ってゆく。その一途な頑固さが田舎町の腐敗を白日の下に晒し、人間の暗部を暴露していく–という話ならいくらでも見てきた。

実際、ウィロビーの部下には弱い自我と知性を抱えているが故に暴力以外の手段を使えないという哀れな男ディクソン(サム・ロックウェル)がいて、黒人の被疑者を殴打するなど、いつも問題を起こしていることがわかる。ウィロビー(ウディ・ハレルソン)を父親のように慕っている彼は看板に怒り狂い広告代理店に乗り込むがあえなく撃退され、憎しみを募らせるのだ。

ちなみに、町の中心街はきわめてコンパクトにまとまっていて、警察署の道を挟んだ対面に、広告代理店がある。完全に西部劇と同じ構造、規模の町なのだ。つまりは映画そのものもまた、ウェスタンの側面を持っている。それは、ミルドレッドのクールで獰猛な面構えと立ち姿からも感じられることだ。

ところが上述のような冒頭部のあとすぐに、私たちはウィロビー署長の姿を目にする。ミルドレッドのもとを訪れて、「できるかぎりのことはしている」と説明するだけでなく、末期癌に犯され死期が間近なのだと告白するのだ。それに対して彼女は、「死んでから広告を出しても意味がない」とけんもほろろにあしらう。このやりとりは笑いも誘うが、居心地の悪い感覚も残すだろう。

まもなく私たちは、彼が町民の尊敬を受けているだけでなく実際に実直で、しかもおそらくは捜査に関しても有能であるらしいことに気づく。誰が見ても同情の余地のないディクソンに理を説き、どうにか真っ当な大人にしてやろうと努めていることも伝わってくる。だからこそ町の一般住民たちは彼に同情して、ミルドレッドへのいやがらせを続けるのだ。もちろん彼女は苦もない様子でそれをかいくぐったり撃退していくわけだが、このあたりから、いったい物語の着地点はどこにあるのだろうと私たちは首をひねることになる。

一方向から登場人物の行動を評価し断じようとした途端、その人間の持つ別の側面が提示される。これが次から次へと続き、そのたびに我々は吹き出したり、ちょっと胸を打たれたりする。結果として、すべての登場人物たちがいわゆる立体的な存在として立ち上がる。

そういうわけで、次に何が起こるのかというサスペンスが途切れることはない。そして登場人物たち全員のために、早く犯人が見つかって欲しいと願い始めるのだ。全員の中にはディクソンも入っている。それほどまでに大きな振れ幅を見せてくれるのだ。サム・ロックウェルの魅力を、ようやく理解させてもらったような気持ちにもなった。

わかりやすい謎を提示し、わかりやすい悪役を登場させる。その上で、物語が転がれば転がるほど、各登場人物たちの人間としての魅力が明かされていく。それと反比例するように、当初無敵のガンマンにすら見えた主人公のかかえる弱さが露呈する。それがまた彼女の持つ別の魅力を生成し、ますます最初の謎の解決を願うようになるのだから、きわめて巧みに構成された脚本としか言いようがない。

そしてラストでのノワール的な展開には『イン・ザ・ベッドルーム』(トッド・フィールド監督作/2001年)を思い起こさせられたが、幕の下ろし方はまったく異なっていた。

公開情報

2018年2月1日より全国ロードショー
公式サイト: http://www.foxmovie-jp.com/threebillboards/
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