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無謀さと結末の先

アレクサンダー・ナナウ
『トトとふたりの姉』

文=

updated 05.01.2017

10才の少年トトは、ふたりの姉とともに学生寮を思わせる殺風景な部屋に住んでいる。水道もキッチン・セットもない。日が暮れると男たちがばらばらと集まってきて、思い思いにドラッグを打ち始める。17才のアナが追い払おうとしても、聞く耳をもたない。

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比較的安定したカットが積み重ねられ、こんなふうに物語が立ち上がるのだが、実のところこの映画はドキュメンタリーとして撮影されている。はじめのうちはつい、「こんなのどうやって撮ったのだろう」と考えるのだが、そのうちそのことは忘れてしまう。

映画が少し進むと、三人の母親はドラッグ取り引きの科で服役中であることがわかる。7年のうち4年半が過ぎたところで、まだ仮釈放にはならない。あとに残してきた未成年の子どもたちは、兄弟が世話をしていると語る。子どもたちの部屋にやってくる連中のうちのひとりがおじということなのだろうが、それがどの男なのかはよくわからない。

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14才のアンドレアだけが、自分の置かれた環境の危うさに気づいているようで、友だちの家を泊まり歩いている。そんなある夜、警察に踏み込まれてアナとおじが逮捕される。アナもまた、すでに依存症に冒されているのだ。

冒頭からわれわれは、たとえばペドロ・コスタがリスボンの“ゲットー”、フォンタイーニャス地区で撮った一連の作品を思い浮かべるだろう。だがコスタ作品ほどの審美性に貫かれているわけでもなく、それ以上に対象との関わり方が本質的に異なる。

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ペドロ・コスタの作品に登場する“住民”たちは、映画の力によって時空を超越したある神話的な存在となる。一方この作品におけるトトたちは、現代社会の持つひとつの症候として正面から捉えられる。一義的には、ルーマニアの首都ブカレストが抱える問題ではあるが、それは「貧困の連鎖」という社会問題系の中にあり、たとえば日本社会もまたそこから除外されるものではないという意味での普遍性をもっている。

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そしてそれは、「貧困の連鎖からの脱出」という、フィクションではおなじみの物語を引きよせる視点ではある。だからこそ、「現実世界でそんなことがおこるはずがない」、「これはそういう物語とは無縁の悲惨な現実を見せられる映画なのだ」、そういう風に観客はたかをくくり、自分に言い聞かせながらスクリーンを見つめる。しかしながら驚くべきことに、そうした予想はあっけなく裏切られるのである。

たしかにそれは、この手の題材を扱うドキュメンタリー映画が夢見る展開である。「いくらなんでもできすぎだろう」と一瞬は目を疑わざるを得ない。だがすぐに、これは14才のアンドレアの持つ聡明さとトトの持つ才能が、カメラによる巧みな介入の力をあますことなく活かせるほどの強度を持っていたが故に可能となった物語なのだと、了解させられることになる。

それにしても無謀な映画である。そもそも映画の結末部の先をも引きうける覚悟がなければ決してできることではないし、覚悟があっても容易に現出する物語ではないのだから。

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公開情報

4月29日(土)よりポレポレ東中野にて公開ほか全国順次
(C)HBO Europe Programming/Strada Film

公式HP: http://totosisters.com/