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匂い強烈だけど姿は見えない

デイヴィッド・ロバート・ミッチェル
『アンダー・ザ・シルバーレイク』

文=

updated 10.13.2018

前作『イット・フォローズ』(15)では、デトロイトという町の死せる中心部が郊外の住宅地へと伸ばす触手が、若者たちの怖れる老いと死の姿に重なるという映画だった。今作では、LAという町が、どこをどう進んでも死へとたどり着く広大な迷宮となる。しかもここでは死すらが、ひとつの形を取らない。そして死へと至るどの入り口にも性がある。性的エネルギーの結晶化した〝ハリウッド映画〟を生成し続ける土地なのだから、それも必然といえる。いやむしろ、結晶化した性的エネルギーこそが、死を生成しているというわかりやすい話なのだ。

主人公サム(アンドリュー・ガーフィールド)は、LAのシルヴァーレイク地区に住んでいる。地区名は、中心に位置する貯水池から取られている。北西には天文台のあるグリフィス・パークがせり上がり、その向こうにはハリウッド・サインがある。ちょうど反対方向の南東にはドジャー・スタジアムとダウンタウンが控えている。

はっきり説明されることはないが、サムは中流以上の家庭に育ち、映画業界の末端にいたようだ。脚本家なのだろう。でも今は働いている様子がなく、仕事を探す気力もないらしい。家賃を延滞し続け、強制退去ギリギリの状態にあるアパートのベランダに佇んでは、トップレスで植物に水をやるヒッピー崩れの無残な老女を双眼鏡で眺めるばかりだ。どこかで知り合った女優の卵とのセックスにも興奮はなく、モデルの元カノが微笑む巨大なポスターと目が合うときにだけ、かろうじてその顔に反応が現れるが、それも幻を見ているようにぼんやりした表情にすぎない。

サムは、『イット・フォローズ』に登場する若者たちと同じ、退屈の病に冒されている。目に映る全てのものは見飽きたもので、非現実的なものにしか感じられない。かろうじて知覚を刺激するのは、目に見えないものの蠢きだけだ。このあたりでは夜中になると犬殺しが出没するらしい。そもそもシルヴァーレイクは呪われているらしい。大富豪は失踪するし、有名人たちは不審な死を遂げているようだ。すべてどこかで聞いたような話ばかりだが、すべてがつながっているとしたらどうだろう?

そんな折、中庭のプールにすこぶる付きの美女が現れる。ほとんど〝ブロンド美女〟の紋切り型そのものとしか言いようのない彼女は、肢体を見せつけるように泳ぎまわる。もちろん、彼女がサムの気持ちを湧かせたほとんど唯一の目に見える対象物となったのは、その姿が紋切り型だったからにほかならない。ただしそれは、紋切り型の〝ブロンド美女〟が男の欲望を体現しているからではなく、〝ウソみたいなハリウッド美女〟そのものだから彼の目に飛び込んできたのだ。元カノも惜しいところまで来ていたのだが、決定的なものが欠けていたということだ。

犬を飼っていて、斜め下の部屋に引っ越してきたことはすぐに判明する。いやむしろ、サムの視線を誘い込み、居場所を知らせたようなものだ。後日、生き餌のようにその扉の前に犬の姿を見つける。そこへ飼い主の美女が出てきて会話が始まり、「中に入る?」とウソのような展開が訪れる。欲望ならいつでも成就させられるという状況だ。だが、完全に彼女との距離が埋まったと思った瞬間、至福の時は終わりを告げる。それでも、明日再会する約束を交わして退去するサムだが、もちろんそんな約束は守られないと相場は決まっている。

女性はサラ(ライリー・キーオ)といった。翌日再訪すると、サラの部屋はもぬけの殻になっているのだ。昨夜突如帰宅した、謎めいたルームメイトたちは何だったのか? 部屋の壁に残された記号のようなものは何を意味するのだろうか? 折しも、ニュース番組では失踪していた大富豪の死が伝えられる。現場には、サラがかぶっていたのとそっくりな帽子が。かくて、サムの探索行が始まる。

前述のとおり、シルヴァーレイク地区周辺には、古典的なLA神話の要素がおおむね揃っているといえるだろう。近年では、クリエイターたちの住む〝ヒップ〟な場所とされてもいる。それでも、劇中でも印象的に触れられるが、時折スカンクが飛び出てきて、強烈な臭気を残していったりするような、奇妙な自然の残滓がある。実際、この地区を移動していて、姿は見えないのに自動車の中にまでハッキリと匂いが侵入してきて、その存在を認識させられた経験がある。これは、サムが彷徨い込むノワール的な世界のありようを象徴しているようでもある。匂いだけは強烈にするけれど、姿は見えない……。

サラのルームメイトたちは、意外とすぐに見つかる。デカダンなカルト・バンドも登場する。売春組織も、大物作曲家も、都市伝説の専門家で孤独に〝ジン〟を作り続けている男も、古いカルト集団の影も、その集団の象徴であるフクロウ女も。すべてあっけなくその奇妙な姿をあらわし、それは奇妙だが見たことのある奇妙さで、だからこそ怪しさだけがつのる。サムの遠い記憶の中のイメージが、突如目の前に現出することもあるだろう。目に飛び込むあらゆるものがなにかの符牒で、それらすべてがひとつになってなにかのメッセージを発している。しかもそのメッセージが現実のものになったりもするのだ。

まあ、要するに病的な状態ともいえるわけで、サムの妄想なのかそうではないのかという境目が限りなく混濁していく。これは映画ではきわめて危険な地帯である。だがしかし、どんな結末もやってこないのだろうとたかをくくってはいけない。きちんといちばん重要なことの説明は付くのだ。きわめてあっけなく。だから、付いたところでなんてことない。広大な迷宮は何ごともなかったかのように、昨日と変わらぬ顔をして目の前にある。

詳細に腑分けしたいという欲望と、ただ気持ちよくその中でたゆたいたいという欲望のあいだで陶然としているうちに、この目で見てきたLAの風景の断片一つひとつまでもが結び合わさるようで、いつの間にかサムのような呆けた薄笑いを浮かべて目を細めながら、そこに浮かび上がってきそうに思えるものを眺めている自分に気付くというわけだ。

公開情報

10月13日(土)新宿バルト9他全国順次ロードショー
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