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フィリップ・ヴィチェス+ヴァレリー・ベルト『聖者たちの食卓』

一人ひとり特別なところは何もない

文=

updated 09.26.2014

シク教の寺院では、礼拝後に男女貴賤宗教その他を問わず無料で食事が供されるのだという。インド北西部の都市アムリトサルにある総本山「黄金寺院」では、毎日10万食が食べられている。

人々はニンニクを刻み、小麦粉をこね、チャパティを焼き、スープを煮込み、配膳し、人々を招じ入れ、食器を配り、給仕し、食べ、おかわりし、食器を片付け、それを洗い、鍋を磨き上げ、食堂を清め、厨房を清掃し、次の日にはまた同じ時間が巡ってゆく。

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このドキュメンタリーはその過程を、生々しいかすめ撮りではなく審美的な映像の積み重ねとして、ある恭しさを保持しながら捉えてゆく。「こんなことが起こっている」というのではなく、「ありうべき情景」という価値を伴った提案として、われわれに示されるのだ。

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つまり、そこで展開されているあまりにもスムースな、誰がどのように指示しているのかしていないのか、おそらく指示などといった言語活動が不必要となるほどに繰り返され洗練されてきた見事な手順の積み重ねが、食欲に衝き動かされる獣としての人間の欲望を滑らかに昇華している様を、われわれは目にすることになる。

カロリーを気にしながら食べ過ぎたり、そのせいで食べられなくなったり、これにはどんな添加物が含まれているのだろうか、放射線レベルはどうだろうなどとなにかとややこしいわれわれだが、それとは全く無縁の、食事との向き合い方がそこにはある。

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いや、シク教における食事にまつわる教えが実際にどうなのかということは、ほとんど関係ない。要するに、食事とは日々の営みにすぎず、であるが故にほかのすべての営み同様尊く、われわれの生とはそのような尊さによってできあがっている、というふうに感じられたらラクではないか、ということだ。

尊いというのは、何か圧倒的ではあっても特別ということではなく、それはこの映画を見ればすぐにわかることだろう。圧倒的というのは、結局のところひとりひとりのわれわれは、ほかの10万人の、あるいは世界中すべての人間となにひとつ変わるところがないという事実であり、個性だとか夢だとか財産だとか、とにかく何者かということなんぞ二次的、三次的付加要素にすぎないという認識のことだ。これほどに、われわれをラクにしてくれる認識もないではないか。あたりまえのことなのだけど。この映画は、そういう風景を見せてくれる。

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公開情報

2014年9月27日(土)より渋谷アップリンクロードショー、K's cinemaモーニングほか全国順次公開!