「“野獣”のような男に“幽閉”されている若く美しい女性が、次第に“野獣”を愛するようになり、ついにはその愛によって“野獣”を“野獣”たらしめている“魔法”を解き、ふたりは結ばれる」という物語は、もちろん、「少女を“飼育”する“ヘンタイ男”」とか「DV男から逃れられない女性」といった物語に読み替えることができる。
そこから、たとえば男性は「己の愛を受け入れない女も、誠意を尽くして監禁/ストークすれば振り向かせることができる」という妄想を、女性は「誰にも理解されない粗野な男を世界でただ一人愛すことのできるわたし」といった妄想を展開することができる。実際にこの原作は、そうした“恋愛”の性的幻想の根幹に触れる“ファンタジー”のひとつであるが故に、親しまれてきた物語なのだろう。
さて、クリストフ・ガンズによる今回の『美女と野獣』はどうなのか。
ベル(レア・セドゥ)=「美女」は、自分の誕生が母に死をもたらしたという罪の意識を持っている。その贖罪を求める気持ちもあり、父の命を救うために野獣の元へ自ら赴くことを決意する。一方で「野獣」(ヴァンサン・カッセル)もまた、かつて妻との約束を破るという罪を犯したことで、呪いをかけられている。つまり、共に「罰」として同じ一つの城で暮らすことになるわけだが、当然のことながら二人の罪には大きな差異がある。ベルの方は思い込みに過ぎず、野獣の方は本物であるという点だ。
そういうわけでこの映画の骨子は、無辜の美女が有罪の野獣を許す物語、ということになる。それはまた、自らの罪の思い込みを捨て去るベルの内的過程とも重なるだろう。だから、野獣との関係では常にベルの方が感情的に上位にある。野獣の苦悩を弄ぶ悦びが、ベルにとっては無実の罪を背負って生きてきた年月への対価ということになるだろうし、野獣にとっては文字通りの懲罰となる。
このふたりの関係と対照的な位置にあるのが、野獣の城の財宝を狙う「小悪党」とその愛人の「女占い師」の関係である。彼女の抱く「小悪党」への愛もまた、彼の罪を許すという形で顕れているが、最終段階にいたってとうとう許され得なくなった「小悪党」は悲惨な結末を迎える。
考えてみると、野獣にしても小悪党にしても、あるいはベルの兄弟や父親に至るまで、男の登場人物たちはみな欲望なり恐怖なりに駆られて行動しているに過ぎない。関係性において主導権を握っているのは常に女性なのだ。「変身」前の「野獣」が呪いをかけられたのは、その事実に気づけなかったであるし、最後に魔法が解けるのは、その事実を受け入れるからにほかならない。
この点だけを見ても、フェミニズム視点からの批判に恐れおののくだけだったディズニー版『美女と野獣』(91)とは、比べものにならないほどの深化を遂げていると言えるではないか。こうしたことに、ガンズ自身はどれくらい意識的だったのだろうか。
「そう。“若い女”と“年上の男”との、年齢と身分を越えた恋愛関係ということでは、シャーロット・ブロンテの小説『ジェーン・エア』とも同じ構造を持っています。同様に、私の愛するジャン・コクトー版『美女と野獣』は、いわば“年上の男”の“最後のチャンス”としての愛に支点が置かれていますが、今回の映画化では、“若い女”の方に重点を置きました。ネコのように気まぐれな行動をとることで、実はベルの方が野獣を支配しています。そしてその支配を通して、彼に赦しを与えるのです」
――完全にサド&マゾ関係でしたね。
「谷崎潤一郎的な世界です。恋愛にSM的関係はつきものですからね(笑)。フランス語の原題は『La Belle et La Bête(ラ・ベル・エ・ラ・ベット)』で、「et(エ)」は、「est(エ)」と同じ発音です。そうすると、『美女と野獣(La Belle et La Bête)』は、『美女は野獣(La Belle est La Bête)』という意味にも聞こえます。そもそもこの物語の中には、最初から男女の関係の転倒を示唆する要素が含まれていたということになりますね」
――だから原作は、一見DV男を際限なく許す典型的な被虐待女性のお話にも見えるのに、女性の心を掴む力があるのかもしれませんね。
――ところで、「金の鹿」のエピソードは、原作にはありませんよね。
「あそこは創作です。自然の中に神性を見いだす、キリスト教以前のアニミズム的世界観を体現しています。キリスト教の世界観では神=人間ですからね。私は、日本文化の中にある“森の精”といったようなものの方が好きなんです」
――クトゥルー神話とも繋がるものがありますね(ガンズは、ラヴクラフトの生み出したクトゥルー神話のアンソロジー映画、『ネクロノミカン』の一編を監督している)。
「そのとおり。人間がこの地上を支配する前に存在していた、偉大な神々の世界ですね。すべての宗教の中に同じようなイメージの原型があります。『大魔神』や『天空の城ラピュタ』でもそれは見られますが、人間が行き過ぎてしまったときに起動する、自然の側の圧倒的な抵抗を体現するものです。今回の映画に出てくる巨人もその系譜にあります」
フェミニスト視点だとかエコロジー視点だとか、作り手にとっては息苦しくもあるし、めんどくさくもあるだろう。だが特に近年感じるのは、もはや一般的なフェミニスト的なメッセージもエコロジー的なメッセージも刺激を失って久しい今、一見そのようには見えない物語の中に、例えばフェミニスト的な視点を密かに導入し、かつ陳腐に陥らない結果を獲得するというのは極めて困難でもあるが故に、刺激的な試みを追求する地平にもなり得るのではないだろうかということである。制約が同時に革新への刺激になるような……。
この映画は、『美女と野獣』というネタとして極めて不利な場所で、果敢にもそういう戦いを挑んでいたのであった。もちろん、そういったことすべてを捨象して眺めても、なかなか立派なスペクタクル映画には仕上がっているのだが。
クリストフ・ガンズ(Christophe Gans)
1960年生まれ。10代の頃は、スーパー8を使ってカンフー映画を撮りまくっていたという。その後フランスの高等映画学院IDHECに進む。映画評論家として活動した後、93年に『ネクロノミカン』の中の一編を監督し、デビューする。以降、『クライング・フリーマン』(96)、『ジェヴォーダンの獣』(01)、『サイレントヒル』(06)といった作品を監督してきた。
公開情報
11月1日よりTOHOシネマズ スカラ座ほかにて全国公開
(C)2014 ESKWAD – PATHÉ PRODUCTION – TF1 FILMS PRODUCTION – ACHTE / NEUNTE / ZWÖLFTE / ACHTZEHNTE BABELSBERG FILM GMBH – 120 FILMS
配給:ギャガ