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ジョン・フォード『静かなる男』

われわれのものにほかならない

文=

updated 09.23.2014

いまさらジョン・フォードのこともこの映画のことも、書き加えることなどなにもないわけだが、ひさしぶりに見直してみてやっぱり面白いし、“物語の展開”やら“見せ方”といったような技巧にまつわる言葉遣いをするのも無意味に感じられる完璧な屹立ぶりに、ついつい涙腺をゆるませられっぱなしとなるのだった。

周知のとおり、ジョン・ウェイン演じるところの主人公ショーンが、家族の故郷であるアイルランドの片田舎イニスフリーにふらりと現れ、住み着くところからこの映画ははじまる。ショーンは、幼年時代に一家で住んでいた家屋を手に入れ、その隣に居を構えるダナハー家の“赤毛のじゃじゃ馬”メアリー・ケイトと惹かれ合うことになる。だが、彼女の乱暴な兄レッド・ウィルはそれをあたまから認めない。という具合に話は進んでいく。

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よそ者に興味津々の鉄道員たちは業務そっちのけで噂話に忙しいし、彼を村まで馬車で送り届ける老人ミケリーンはいつでも「喉が渇いて」いてウィスキーを水のようにあける。人々の大好物はケンカで、クライマックスに至って、それまで過去の記憶から自制に自制を重ねてきたショーンがレッド・ウィルとの“決闘”に至るや、村人全員どころか近隣住民すべてが観戦する騒ぎとなる(もちろん、『天空の城ラピュタ』前半のケンカ・シーンや『紅の豚』ラストの“決闘”シーンのルーツはここにある)。

そして彼らには、カトリックもアングリカンもない。アイルランドの僻地のことだから、割合としてはカトリック信者の方が多いが、アングリカンの牧師の地位を守るためになら、彼らがアングリカンの信徒になりすまして歓声をあげたりもする。牧歌的とか素朴とかいうことではなく、生きるための智慧によって練り上げられ洗練の極みに到達している、としかいえない世界がそこにはあるのだ。

ひとつだけ、ヒロインの伝統的価値観への至誠ぶりやそれにまつわる女性扱いの乱暴さに、今日の目では一瞬驚くかも知れない。なにしろ、それまではのびやかで現代的なアメリカ人ぶりを貫いてきたショーンがとうとう堪忍袋の緒を切らし、言うことを聞かないメアリー・ケイトを文字通り引きずって長距離を歩き続け、“決闘”の場に辿り着くことになるのだが、道々、「奥さんのしつけにお使いなさい」と小枝を渡す“親切”な中年女性がいたりするのだから。

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しかしながら、実際のところ引きずり回されているのは終始ショーンの側にほかならなく、古い因習に対して勝利を収めるのはメアリー・ケイトであり、その勝利によって最終的に過去の亡霊からも解き放たれるのはショーンであったことがまもなく明らかとなる。それまで「旦那に厳しくしつけられる嫁」という形に寄り添って見せてきた二人が、深い相互理解の中で対等なパートナーとして共通の目的に邁進する関係にあったことを、突如明らかにするシーンのカッコ良さには鳥肌が立つだろう。

われわれの生きるこの時空とそこで生産されている映画の絶望的な不完全さが事実であることに変わりはないが、だからといってもっともらしくうなだれてみせる必要はない。作られたのが1952年だったとしても、今この映画を見ることができる以上、この作品もまたわれわれのものにほかならないのだから。

 

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◎『静かなる男』は、『駅馬車』(上写真)と共にジョン・フォード監督生誕120年を記念し、デジタル・リマスター版上映される。

公開情報

「静かなる男」©1952 MELANGE PICTURES LLC. ©2012 PARAMOUNT PICTURES. ALL RIGHT RESERVED.
「駅馬車」©MCMXXXIX BY WALTER WANGER PRODUCTIONS, INCORPORATED. ALL RIGHTS RESERVED. 
ジョン・フォード監督生誕120年!「駅馬車」「静かなる男」デジタル・リマスター版上映
9月27日(土)より、シネマート新宿、シネマート心斎橋にてロードショー