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もはや娯楽映画

ワン・ビン『収容病棟』

文=

updated 06.25.2014

中国の、しかも片田舎(雲南省北西部の昭通市)にある精神病院で撮影されたドキュメンタリーと耳にすれば、どれだけヒドイものが見られるのかという期待が自然と高まり、映画はその状況を告発するものとなるに違いないと誰もが考えるだろう。だがもちろん、ワン・ビン作品がそういう退屈な映画になっているはずもない。

たしかに我々は開巻早々、薄暗い病室のベッドからひとりの老人が起き上がり、下半身剥き出しのままふらふらと出て行った廊下で立ち止まるや湿った屁の音と共に放尿音が響き渡る、というような風景に出会う。

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誰もがそこら中に痰を吐き散らすし、ベッドの下に置かれた金だらいは、水浴びや洗濯といった用途にも使われているようなのだが、就寝時間以降は主に小便器として用いられている。うまくたらいに命中しているのかどうかと心配になるほど、誰もが無造作にベッドサイドで放尿するのだ。寝付いた同室者にあれこれとちょっかいを出したり、病室を飛び出て廊下を走り続けたり全裸で水を浴びる者もいる。

ひたすら酔っ払ったような滑舌で支離滅裂なことをしゃべり続けている青年がいて、その姿を眺めていると「なるほど酔っ払いの醜態というのは、精神病患者の様子と同じなのだ」などと素朴な事実に気づくこともあるだろう。

収容されている患者たちや彼らのおかれた環境には、たしかに告発されるべき側面もあるだろう。“西側先進国”の基準から見ると、患者の人権は蹂躙されまくっていることになるはずだ。もちろん、精神病院というのはそもそも施設内の現実を隠蔽する装置でもあるから、我々もまた自国における精神病院の実態について詳しいわけではない。表面上遵守されている人権感覚と院内の現実とが激しく乖離することもあるのではないかとは容易に想像される。ホントのところ、この映画に出てくる中国の病院と大差ないのかもしれない、といった具合に。

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それはともかく、ここにはいわゆる精神疾患ではなく、単純な「放浪罪」や「酩酊」、あるいは「過度の陳情」といったような理由でぶち込まれている人間もいるらしいとプレス資料には記されている。ただし、映画を見るだけでは、ハッキリ“本物”とそれ以外を見分けることはできない。それを裏付けるように、「ここに長くいると精神病になるんだ」というどこかで聞いたような警句めいた言葉を漏らす患者もいる。

しかしながらそうしたことのすべては、中庭に面した回廊と、そこに向かって開く扉を持った病室という、狭く閉ざされた空間の中で過ごされていく「患者」たちの時間を構成するもののひとつひとつとして、我々の目の前に現れるに過ぎない。そこで展開されているのは、極限までミニマル化されているとはいえ人間の生の営みそのものであり、それ以上でも以下でもない。つまり彼らの生と、我々の生との間に本質的な隔たりがあるわけではないことが、徐々に了解されてゆくのである。

当然、出入り口は閉ざされているし、回廊には格子があるから中庭に向かって身を投げることもできない。問題を起こせば拘束されたり強烈な薬物を投与されるし、そうでない時にも、毎日与えられるなんらかの薬物の影響下にある。患者たちは、そうした外的な条件の下で放置されているに過ぎない。だがしかし、様々な条件によって既定された毎日を過ごしている我々もまた、限定された“自由”の中にいることに変わりはない。

そんなことを強く考えさせられるのは、彼らの間にも様々な形の“愛”があることに気づく瞬間だろう。家族愛、同胞愛、あるいは動物どうしの愛情に限りなく近いように見えるものから、剥き出しの同性愛(セックスそのものの映像が現れることはない)や階をまたぐ“遠距離恋愛”もある(女性患者は一階層下に収容されている)。

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憎しみと融合し捻れ曲がった姿を見せる愛のかたちを目撃することすらある。妻が夫を見舞いに来る。かいがいしく世話をしているように見えて、実のところ彼女は、言葉で夫をねちねちいたぶり続けている。それは入院前の夫によって引き起こされた、数々の苦悩に対する復讐でもあるのだろう。夫の方はそれを理解しているかのように不条理な反抗を示すが、その幼児のような表情から内心を読み取ることはできない。ただ、そんな彼をひたすらだだっ子扱いする妻の顔には明らかな悦びがある。いずれにせよこんな風景は、我々の日常において幾度となく目にしてきたものではないか。

要するに、彼らはそうやって生きているし、我々もそうやって生きている、としか言い様がなくなってゆく。

その上で示される、この映画の持つ風刺的な(すなわち“現代中国”の現実を反映する)側面の中で最も象徴的なのは、退院患者のくだりだろう。母親に迎えられ、実家に戻る30がらみの男。その家には父親もいるが、会話はひとつもない。周囲では再開発らしき工事がさかんに行われていて、どこにも落ち着ける場所はない。荒れ果てた風景の中を、なすことのない男はただ散歩をし続ける。昼も夜も歩き続ける姿を追うカメラは、ある瞬間、ふと立ち止まる。男は歩き続け、ダンプカーが轟音と共に走り抜ける夜の街道の果てで、闇の中に呑み込まれる。その次のショットが病院の回廊を映し出した時、我々は深く安堵していることに気づくだろう。明らかに、病院に収容されることで命を長らえている人間たちも存在しているのだ。

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それにしても、人間の生そのものを見ていると感じさせられるほどの素材を撮影するのにどれほどの時間が費やされ、どれほど深く対象の中に沈潜していたのかと考えさせられるわけだが、実のところ撮影期間は三ヶ月ほどで、その間朝出かけて昼食は外で摂り、午後は深夜まで撮影してから引き揚げるという、ある種サラリーマンのように規則正しい毎日を繰り返していただけなのだという。それが容易な作業だったとは決して言えないが、どれだけ対象に肉迫し、同一化し、自分自身もまた傷だらけになりながら作り上げられたのかということが称賛されがちなドキュメンタリーというジャンルの中にあって、いつもながら胸のすく思いをさせてくれる作り手ではないか。

カメラを通して対象を見つめるワン・ビンというひとりの人間が、目の前にいる人々の生を徐々に理解してゆくその歩みと、映画の進行とは完全に同期しており、我々もまた、当初“混沌”にしか見えなかった集団の中に、様々な物語を見いだしてゆくことになる。それを極めて巧みに編集し展開して見せるこの作品は、前編の122分、後編の115分、合計四時間ほどの間、退屈させるということがない。スリリングであったり、ミステリアスであったり、ほのぼのから怒りを経たかと思えば突如哄笑を誘われたりといった具合にエモーションは誘導されまくり、思考は様々な方向に伸びて行き、一瞬たりとも弛緩がやってくることはないのだ。もはや、娯楽映画とすら言えてしまうような面白さが、そこにはある。

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監督:王兵(ワン・ビン)
製作:Y.プロダクション、ムヴィオラ
2013年/香港、フランス、日本
上映時間:前編 122分/後編 115分(全237分)

公開情報

© Wang Bing and Y. Production  6月28日(土)、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開