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『ひきずる映画ーポスト・カタストロフ時代の想像力』

映画のもたらす単純な悦びについて

文=

updated 09.21.2011

もちろんどんな映画でも、見ている最中、見た直後、そして見てからだいぶ時間が経った後の面白さの三つを持っていて、作品によってはどれかひとつの面白さしか持っていなかったり全部を持っていたり、あるいはどれかひとつだと最初は思ったのに、しばらくして別のひとつだということに気づいたりいろいろなことがある。あらすじやキャスティング、音楽といったものだけに囚われていると、最初の面白さか、よくても二番目の面白さ止まりの映画の楽しみ方しかできないということになるだろう。見ている最中はなんでこんなに退屈なものを、と憤慨していても、見終わってみると奔流のような言葉や思考を誘い出す作品であることに気づいたり、結局ダメな映画だったと断じたはずが、数ヶ月も経った頃になってふとその映画の何かが蘇ってきて、たちまち素晴らしい映画と思え始めるということもままある。

そんなことは当たり前の事であって、いまさら誰に説明されるべきものでもないのだが、本書のタイトルにおける「ひきずる映画」とは、要するに上述の内、特に二番目と三番目の面白さを持った映画を指しているということになる。映画は、作り手や映画そのものが目指したものとは無関係に、刺激的な思索や、消えない傷跡を我々の中に生じさせる。それがどんな思索/傷跡なのかということについて考えたのが、本書なのだ。

目次に挙げられたタイトルのラインナップを眺めてみると、たしかに「アート系」と呼ばれがちな作品が多く含まれてはいる。だが、上述のごとき映画の見方をしたことがない者にとっては、「え、この映画からこんなことを考えるの!?」というものも入っているだろう。それこそが重要なポイントなのだ。そこから読み始めてみると、なにかしらの発見があるだろう。

とはいえ、その「え!?」感だけに重点を置いた言説には気をつけなければならない。時代遅れだとか反時代的とかいう形容詞とはまったく関係なく、ただ単につまらないとしか言いようのない、スノビズムに依拠した映画の見方だからだ。要するに、その映画がどんな映画なのかということとは無関係に、おのれの思考の価値だけを求めるちんけな振る舞いなのだ。

でも、本書のページは安心して繰っていただきたい。気になっていた映画がどうして気になっていたのか、あの映画はどう見れば面白いのか、もしくは、こんなに面白い映画があったのか、という単純な悦びを発見することができるだろう。

その悦び自体は単純であっても、今、この手の書籍を出版するためには様々な障害を乗り越えなくてはならない。果敢な試みと呼ばざるを得ない。

『ひきずる映画-─ポスト・カタストロフ時代の想像力』
村山匡一郎+編集部 編/フィルムアート社

□ amazon
http://www.amazon.co.jp/dp/4845911760

初出

2011.09.21 14:30 | BOOKS