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カメン・アレフ監督
『ソフィアの夜明け』

文=

updated 10.22.2010

現実の側をこそ 文=川本ケン 木工所で効率的に動くひとりの青年。その手つきには、職人としての精度以上の執拗さが感じられる。 その彼が、絶望と呼んでしまうのも安易すぎる、ねっとり停滞した時間の中で日々をやり過ごしている。ドラッグ中毒から逃れるべくメタドン療法を受けていることも示される。 自宅では、未だ世間に見いだされないアーティストとして作品を作り続けているが、それは制作の果ての成就を夢想してのことですらなく、いわば強迫症的過程として精神をギリギリのバランスで保つためのほとんどチックに近い動作と化しているようにも見える。 そしてもちろん、そんな彼の振る舞いは、他人にとっては不可解そのものであるし、傍迷惑な自分勝手として、特に近しい者を傷つける。 一方、ひとり実家に残った彼の弟は、極度の狭窄視野の中で身をすくませるようにして生きている父親と、その下卑た(としか感じられない)再婚相手に挟まれながら生きている。 そうした屈託から逃れるためにネオナチに接近してゆくというのは、あまりに安易な展開だが、世界のどこでも馴染みの光景だろう。 ようするに、主人公兄弟をはじめとして、ここに映し出される景色のほとんどすべてが、ソフィアという邦題に含まれる都市名に限定されることなく、極めて見慣れたものなのである。 我々のものであると言っても良いだろう。ブルガリアという国の特殊性、あるいは、やがて主人公が一筋の未来を仮託する少女の国籍(=トルコ)がブルガリアの歴史の中で持つ意味合いなどといったものは、とりあえずどうでも良い。 主人公は、そのモデルとなったアーティスト、フリスト・フリストフが自身を演じるという形で演じられている。そしてフリストフは映画の完成直前に事故死したのだという。 だがそうした方法論や事実は、単にこの映画にドキュメンタリー風の迫真性を付与したわけではない。むしろ、疲れ果てた主人公が終盤に至って視る、絶望そのもののようでもある希望の風景の中に顕れているように、現実をなぞるのではなく、現実の側をこそ変質させてやろうという不遜なまでの意志に拠るものなのである。 紋切り型をおそれず、極めて普遍的な輝きを持つ映画と言うほかない。 『ソフィアの夜明け』 10月23日(土)より、渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開後、全国順次公開 【関連サイト】 オフィシャル・サイト www.eiganokuni.com/sofia

初出

2010.10.22 11:00 | FILMS