CIAの拷問部屋に、ひとりの若い女性が到着する。内面を隠蔽するようにして、特徴のない黒いスーツに身を包んでいるが、拷問の様子に動揺していることは隠し切れていない。だがわずかな時間経過によって、そうした動揺は跡形もなく消え去っていることが示される。拷問を含む情報収集活動は、彼女らにとって日常業務に過ぎない。その女性が、この映画の主人公であるCIA局員のマヤ(ジェシカ・チャステイン)である。
映画は、ソダーバーグが『トラフィック』で完成させたような、リアルな断片を積み重ねることで物語を展開するというスタイルで進行していく。ひとつの手がかりがもうひとつの手がかりに繋がり、という具合の一進一退が、リアルな手触りを失わないギリギリの盛り上がりを随所にちりばめながら一枚一枚カードをめくるようにして見せられるのである。それはすべて取材に基づいているのだという感覚が極限まで高められているが、それでいて俯瞰視点は導入されない。当然のことながらそうした俯瞰視点の欠如が、語りのレベルにおいて臨場感を支えている。
そして、そこにほとんど感情の高揚はない。拷問の手法として声が荒げられたり、怒りが演じられたりはするが、暴力は倦怠を醸成するばかりのようである。途中、先輩の女性局員ジェシカによって、「あんた男はいないの?」という意味の質問が投げかけられるシーンが突如投げ込まれる。「そんな暇ない」というような内容がマヤの返答なわけだが、その時でも、彼女がビンラディン追跡に取り憑かれているという印象はない。ただ、倦みきっているという感じだけがある。暴力の行使が、やすりのように人間を摩耗させていくことは、マヤの上司であるチームリーダーの澱み具合にも示される。

それは、ジェロニモ=ビンラディンを射殺したという報告が入り、その遺骸が基地に運び込まれるのを迎え出る瞬間のマヤの姿なのだが、突如としてそれまで隙無くスーツに包まれていた女性の肉体が、ブラウスの隙間から溢れ出てしまったといった感じで目に飛びこんでくるのである。それはどう見ても巨大な乳房の谷間であり、そういえばそれまでほとんどのシーンで、顔に化粧っ気はなく、髪はひっつめられているか無造作に伸びているといった様子だったことを直ちに思い出す。冒頭、着任早々にスーツをからかわれるというシーン以降、女性性に言及されるのは前述の「男を作る暇はない」ことが語られるシーンくらいで、たとえ同僚が爆死した時でも嗚咽一つこぼれることなく、要するにどこまでも女性性は完全に抑圧されてきていた。

だからこそ、そのオブセッションが現実のものとなった瞬間、彼女は女という身体に戻る。復讐の昂揚もなく、ただペニスを失ったあとの空虚が残る。そういうことなのだろうか。だとすれば、『ニア・ダーク』、『ハートブルー』、『K-19』、『ハートロッカー』といった一連のキャサリン・ビグロー作品における性と一体化した暴力という系譜の中で、もっとも赤裸々でありながら、単純な図式的腑分けの後にも過剰なものが残るという意味でもっとも洗練された映画と言えるだろう。
そうした性的な充填なしで、「CIAが極悪テロリストを見つけ出し射殺する」というあらすじの映画をここまで面白く見せられるわけがないではないか。
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『ゼロ・ダーク・サーティ』
2月15日(金)よりTOHOシネマズ有楽座ほか全国公開
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オフィシャルサイト http://zdt.gaga.ne.jp/
スタジオ・ボイス特別号「MUSIC in CAR」>>
「MUSIC IN CARインタビュー」から、「JUN」代表の佐々木進さんのインタビューをお届けします!
初出
2013.02.15 09:30 | FILMS