ジョン・エドガー・フーヴァーといえば、ジェイムズ・エルロイ作品に親しんでいる読者であれば特に、まずは窃視症の変態狒々爺のイメージだろう。FBIという組織そのものを作り、初代長官として半世紀ほどの間ひたすら人びとの秘密を集積し、その力によって新任の大統領8人を含む人間たちの急所を握っていた男。偏執狂的な反共主義者で、数々の謀略・謀殺の黒幕。生涯独身を通し、同性愛者であるという噂も絶えなかった。
こうしたプロフィールを見る限り、強大な権力欲とその卑小(であろう)自我との歪な共存は、むしろ近年のオリヴァー・ストーンを萌えさせる題材のようでもある。なにしろあの、世界で最も軽蔑され嫌悪されている男と呼んでも過言ではないブッシュ元大統領を主人公とする映画『W』を、ある種のシンパシーの籠もった視線を持って作った男なのだから。
だがこの映画『J・エドガー』は、クリント・イーストウッドによって撮られた。そしてもちろん、イーストウッド作品らしく不可解なまでに不可解なところのない映画に仕上がっている。名字である「フーヴァー」を排除した「J・エドガー」というタイトルが示すとおり、この映画はアメリカ各地にある公共建築などに名を残した「歴史上の人物」ではなく、ただ、あるひとりの男についての物語を曇りなく語る映画なのである。
独善的な母親によって育てられ、その期待に添うことをひたすら願いながら育ち、はじめは司法省捜査局で、やがてはFBI長官として権力を拡大してゆく。その権力欲の強さは、同性愛者であるがために女性とまともな交際もできず、結婚をすることも子をもうけることもできない己は人並以下の出来損ないに過ぎないのではないかという怯えの強さに比例することになるだろう。自らの真の姿を隠せば隠すほどに、他人の持つ薄暗い秘密の力に吸い寄せられてゆく。薄暗い秘密であればあるほど、その人間に対して行使しうる力も強大になることを、彼こそが誰よりも理解しているのである。
ここでは、「リンドバーグ愛児誘拐事件」をはじめとする現代アメリカ史における大事件に触れながら、大雑把にいえば、そういうわかりやすい図式によって彼の人生が語られる。その意味で、不可解なところはなにひとつない。ゲイ描写にもまた、驚くほどに不鮮明な部分がない。エドガーが、生涯の右腕となるクライド・トルソンを見いだした時のときめきぶりや彼との痴話喧嘩シーン、もしくは「正体」がバレるのではないかとびくつくエドガーの姿などには、正直なところ微笑みを誘われるし、最終的には極めて意外なことに、ゲイ老人ふたりのプラトニックとも呼べそうな関係には涙することにすらなるだろう。
当初は、卑劣な陰謀を巡らせる姿に嫌悪を感じさせられたり、臆病ぶりを糊塗する小賢しい嘘に嘲笑を誘われもするわけだが、映画が進行し、そうしたエドガーの姿を見つめれば見つめるほど、その姿が希薄になり画面いっぱいに拡がり、やがて視認することが不可能になるような、あるいは、映画から不可解さが排除され、透明になればなるほど盲点が画面全体を覆っていったとでもいうような、そういう印象が残る。
結局のところ、エドガーとは誰だったのか? この映画は何を語ったのか。我々の中に残ったものを探ると、「単なる伝記映画でもゲイ映画でもないなにか」としか言いようがない。なにやら、「アメリカそのもの」とでも呼びたくなるような誘惑にすら駆られる。恐怖におののきながら権力を拡大し、尊敬を希求しながら嫌悪を浴び、最善と思われた策が非難を呼ぶ。それでもなおその悪循環に気づかず、体力の限界を薬物の力ひとつによって支え、退かない存在。
そう考えてしまうとあまりにもわかりやすく、今この作品が作られたことの意味が理解できるということにもなるだろう。だがしかし、そのようにどこにでも寓意を探し求めてしまいたくなるような誘惑の彼方からもう一度立ち現れるてくるのが、ここには我々の個々人の小さな世界からさほど遠いものではないものがあるという感覚ではないか。それは認めがたい事実でもあるだろう。どれほど「これは歴史上の人物を描いた伝記映画である」と強調されたところで、この映画が、我々の好意と嫌悪と共感と憎悪をすべて集めるメロドラマとして成立しているのは明らかなのだ。いやむしろ、ひとつの小さなメロドラマとしてのみ機能させられている。今、この題材の中にこういう映画を見いだすとは恐るべき眼力であるし、その眼力に従うというのは極めて聡明な判断以外のなにものでもないだろう。
もちろんのこと、イーストウッドにそんなことを尋ねたところで、「面白い脚本だったからその通りに撮ったに過ぎない」という回答が返ってくることは間違いないのだが。
『J・エドガー』
1月28日(土)丸の内ピカデリー他全国ロードショー
□ 関連サイト
オフィシャルサイト http://www.j-edgar.jp
facebookファンページ http://www.facebook.com/jedgarjp
公開情報
(C) 2011 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.
初出
2012.01.25 11:00 | FILMS