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ソフィア・コッポラ監督
『ブリングリング』

ぐらぐら揺れまくる

文=

updated 12.04.2013

『彼女たちはなぜ万引きがやめられないのか?』(竹村道夫監修・川村重実著/飛鳥新社刊)によると、経済的な理由もなく常習的に窃盗/万引きを繰り返す者は、窃盗癖という嗜癖性疾患のひとつに冒されている可能性があるらしい。しかも、例えば「摂食障害」のような病を併発していることも多いという。窃盗/万引きが病であるとすると、たとえ本人が止めたいと強く願っても簡単には止められないし、刑罰による更正は無効で、専門的な治療を施すことが、本人にとっても社会にとっても益になるということになる。

この映画を見て、というよりも、高校生たちの一団が“セレブ”たちの自宅に不法侵入し、窃盗を繰り返していたという実際の事件を基にして作られたということを耳にして、最初に考えたのはそんなことだった。もちろん、同書を読み進めると、徒党を組んで万引きを繰り返すような事例は最初から「窃盗癖患者」の範疇から外されているし、映画の方にも主人公たちがなんらかの“病”に罹患しているというほのめかしはほとんどない。

だが、極端に保守的な家族観を持った者でなくても、例えばスピリチュアル狂いの母親にホーム・スクーリングを受けているニッキー(エマ・ワトソン)がまともな生育環境で育っていないのは明らかだし、一番最初にレベッカと共に家宅侵入に及ぶマークだって、明示はされないけれどおそらく同性愛者だろう。また、“キモ”がられているマークに居場所を与えるレベッカが韓国系であることは、それが当時(00年代後半)のLA(郊外の高級住宅地)でどのくらいの意味を持つのだろうか? とつい考えたくなる。

つまり、“セレブ”に憧れ、そのライフスタイルやファッションをほとんど自分の中に取り込んでいる“イケてる”グループに属する高校生たちが理由もなく犯した“贅沢病”のような犯罪であるように見えて、実は青春ものの王道である“アウトサイダー”たちによる逸脱行為だったのではないか。少なくとも、この映画を見る限りでは、まずはそう感じる。

しかもそれは、メディアへの欲望、あるいはメディアによって生成され無限に加速・増殖されてゆく物質化された欲望の中心地であるLAであるからこそ発生し得た“風土病”の側面も持つだろう。そこには、欲望によって形作られた欲望そのものである偶像たちが無数に棲息しているのだから。

 

その偶像たちと同じ空気を吸いながら生活している主人公たちにとって、侵入は聖地巡礼にほかならないし、そこにあるものは聖遺物ということになる。当然、メディアへの欲望とは、超越的な存在をただひたすらあがめるのではなく、その超越的な存在に、我と我が身もなり得るということを大前提としていて、信仰の対象の向こう側には己自身があるという構造を持つので、事態はもう一段階複雑化している。

単純に言えば、“セレブ”宅は聖地でありながらあり得べき我が家でもあり、彼らが身につけているものは聖別されていながらすでに自我の延長でもあるのだ。そして巡礼であるが故に、ひとりで行う必要もない。そもそもメディアへの欲望とは“万人”に共有されているが故に個人的なものであるという性質を持つのだから。

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初出

2013.12.04 10:00 | FILMS