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ブレック・アイズナー監督
『クレイジーズ』

文=

updated 11.14.2010

原因とか結果とか 文=川本ケン ひと言でいえば、きわめてそつなく仕上げられた娯楽作品。そういうものとして眺めれば、問題なく楽しむことができるだろう。つまり、オリジナル版の持っていた要素を巧みに取捨選択しつつ強弱をつけることでアップデイトし、滑らかで飲み込みやすい形にはめ込んだといった趣の映画である。それ故に、オリジナル版と対比してみると、さらに興味深く見ることができる。 まず面白いのは、オリジナル版においては、町を占拠する軍隊の側と、それに抵抗する住民の側とがほぼ等価に描かれていたのに対して、このリメイク版が完全なるパニック映画として構成されている点だろう。オリジナルは73年に公開されており、しかも監督はジョージ・A・ロメロであるから、物語の上には当然のことながらヴェトナムでの、攻める側の体験が生々しく刻印されている。一見厳密な計画にのっとっているように見えて、その実大部分がゆきあたりばったりの行動を展開しているに過ぎない軍隊の姿は、常に黒い笑いと共に描かれるが、その軍隊によって圧倒的に蹂躙される住民たちの側にユーモアはない。それに対してこのリメイク版の物語では、攻められる側への想像力のみが展開され、町を封鎖する軍隊は(時に誤作動するとはいえ)精確な殺戮機械としてひたすら機能し続ける。 そしてまた、オリジナル版では曖昧な形で示されることによって、物語の中で巧みに機能していた「感染症状」が、ここでは端的に「暴力衝動の爆発」という明確な形を取る。それは近年の「走るゾンビ」の姿そのものであるし、いってしまえば「住民の間に潜むテロリスト」を体現する姿でもある。それ故、軍隊の封じ込め行動には、正当化されうる部分もあることになる。「テロリストの暴力に対応するのは暴力しかない」という論理は、実のところ、主人公である保安官が「感染者」をとっさに撃ち殺すことでその家族に非難されるという形で、冒頭示される。言い換えると、オリジナル版にあった殺す側への想像力は、組織としての軍隊の行動への関心ではなく、個人が感染者(=テロリストかもしれない者)と対峙したときに、その者を独自の判断によって殺害するべきなのかどうか、という個人の次元で展開されているのである。もちろんそれは、正当防衛という概念を媒介として、攻められる側の論理そのものともなりうる。 そう考えてゆくと、出来の良い小粒な娯楽作品である以上に、実はきわめて同時代的な問題意識と視点が盛り込まれた傑作なのではないかという気さえし始める。実際、細菌兵器を開発することで、「感染者=テロリスト」発生の根本原因を作り出したのが軍自身であるという設定は、アフガニスタンにおいてタリバンを育てたのがアメリカ合衆国そのものであったという事実を思い出させもする。だがしかし、プロローグとエピローグにおいて、衛星の捉えた映像という俯瞰視線を見せ、誰かしらの(誤ったものであったとしても)決断=命令が下されているとおぼしき様子を観客に示してしまったことによって、結局はそつのなさの方を際だたせてしまう結果に陥った。 なにしろ、俯瞰視点の存在し得ない世界こそが我々の生きている世界なのだから。思い出してみると、両サイドを等価に描くことで一見揺るぎない俯瞰視点を獲得しているかのように見えるオリジナルの方が、実はどんな視点を取ったところで世界が底なしのグズグズ状態に陥っているという事実に微塵も影響を与え得ないという絶望の強度においては、はるかに上をいっていたといえないだろうか。この世界には、明確な境界線はどこにもない。原因も結果も、手段も目的も、レトリック以外の形では存在しない。ひとつの町を消滅させてしまおうと誰かが判断することもなく、ひとつの町は消滅しうる。我々はそういう場所にいるのだ。(川本ケン) 『クレイジーズ』 シネマサンシャイン池袋、TOHOシネマズ 六本木ヒルズ他 全国ロードショー! 【関連サイト】 『クレイジーズ』オフィシャルサイト http://crazies.jp/

公開情報

© 2010 Overture Films, LLC and Participant Media, LLC. All



初出

2010.11.14 08:00 | FILMS