初老の男が、薄暗い部屋の中でタバコを吹かしている。その視線の先には、現金を数える男の姿があるようだが、顔には何の表情も浮かんでいない。ただひたすら、倦みきった無関心だけがある。
この無名の男のクロース・アップだけで、この作品が我々に見せようとしているものの質と、それがある程度以上の成功を収めていることが、直ちに了解されるだろう。すでに流れている時間の中で、すでに起こり始めている物事の一部分に、カメラが向けられているという感覚。それこそが真実の手触りなのである、という映画。
これが90年代の侯孝賢やエドワード・ヤンといった人びとの映画に直接影響を受けた「ドキュメンタリー・タッチ」の作品であったら、カメラはいつでも対象から距離を保ち、あるいは突如事件のただ中で混乱に巻き込まれて見せ、それでも全体として禁欲的な顔つきで物語る、ということが行われていたことだろう。もしこの映画がそのようにして作られていたのだとしたら、表面上美しくはあっても刺激を欠いた作品となっていただろう。
だが本作においては、そのような手法的禁欲は存在しない。手持ちカメラの不安定感と、大仰さを排除した劇作が手放されることはないものの、ドキュメンタリー・スタイルを超えた場所に入り込んだカメラが人びとを見つめる。そのようにして自在に切り取られた空間の中で、登場人物たちの置かれた劇的な状況が浮かび上がる。劇伴が用いられることはないものの、音響空間もまた極めて大胆に設計されている。その幅は、ほとんどスタイリシズムぎりぎりのところにまで接近するが、決して一線を越えて、目の前で起こっている出来事の手触りを平準化したり、あながちにエモーションを生成することだけはない。しばらくの間、生起している出来事を見つめ、いくつかの断片をつなぎ合わせることでしか、我々はその意味を捉えることはできない。ちょうど、現実世界がそうであるように。
そこでは、六つの物語が同時に進行してゆく。「組織」に入ろうとする少年、「組織」の小心な帳簿係、違法産廃業者に弟子入りする技術者の青年、オートクチュールのコピー職人、そして大物犯罪者を目指すチンピラふたり組。この映画が明らかにする「組織」の「真実」といったところに、たいして目新しさがあるわけではない。ただ、彼らの小さな行動が、どんな結果を招くのか。すなわち、彼らがどのようにして「組織」と関わり、暴力と接するのか、あるいは接しないのか。そうしたことがすべて、空間と人物との関係によって示されてゆく。その視覚情報だけが、最初から最後まで強烈なサスペンスを生成する。だからここには、暴力の滑稽さはあっても、それを傍観するという全能感を伴った愉しみはない。
ひとつ弱点があるとすれば、あくまで真実の手触りから離れないが故に、映画の射程が、結局のところ社会派的意識の範囲内に収まっているということで、これはまったくもって贅沢な物言いではあるが、そこで語られていることがまさに我々の世界の話であるという感覚は、ない。もちろんそれは限界点でもあるが、自律性の証しでもある。いずれにせよ、体験して損のない2時間15分であることに間違いはない。
『ゴモラ』
10月29日(土)より、渋谷シアター・イメージフォーラム他、全国順次公開
配給:紀伊國屋書店、マーメイドフィルム
□ オフィシャルサイト
www.eiganokuni.com/gomorra
初出
2011.10.28 12:30 | FILMS