671-pc-main

杉田協士監督
『ひとつの歌』

暴力的なものの正体

文=

updated 10.11.2012

ひとりの孤独な青年が、ポラロイドカメラを手に街を彷徨している。映画では幾度となく目にした光景だが、それは犯罪の匂いと分かちがたく結びついている。

この作品においても、主人公の青年(金子岳憲)はいつでも尾行をしていて、彼がどんな写真を撮っているのかを知らない我々としては、なぜその対象を追跡しているのかはわからない。つまり、どんなことでも起きる可能性がある。それがすなわち犯罪の匂いということになるだろう。観客はそのまま宙吊りにされて、その行動を見つめる。

やがて彼が、プラットフォームに佇む一人の中年女性の後ろ姿を盗むように撮ると、彼女の佇んでいた同じ場所に、幽霊のように黒々とした少女の姿が現われる。それがヒロイン(石坂友里)であり、青年はある意志をもって彼女の後を尾けるというよりも、その鈍重な倦怠そのもののような影に吸い寄せられるようにして、その自宅を突き止めてしまう。

 

このようにして、ひとつのシーンが次のシーンを呼んだり呼ばなかったりしながら、この映画は、静止がすなわち移動であるような奇妙な感覚を見るものの中に引き起こしてゆく。例えば、スクーターのふたり乗りという、これまたアジア映画においては特権的なイメージも出現するが、その移動感覚は、極めて繊細な差異を保ち、類型に収まらない。

スタンダード・サイズの画面は、もちろん主人公の撮り続けているポラロイド写真の縦横比に近づこうというものなのだろうが、それ以上に、登場人物たちの視線をいつでもフレーム外に導き出す機能を持ち、ここでもまた、閉塞感がすなわち開放感であるような、矛盾した拡がりを感じさせ続ける。しかも風景ショットにおいては特に、画面の中心を敢えてずらしたという構図によって、それが誰かの主観ショットなのではないかというぬぐえない印象を残す。

主人公たちがフレーム内にいるときの、彼らの視線やアクションに呼応したのではなく内面がフレーミングのかたちに結実したとでもいうような、じわりとした動きを見ていると、やはり青年の探し続けているポラロイド写真のフレームそのものということになるのだろうかと堂々巡りの考えが浮かぶ。また、望遠レンズ風の平面的な画面は、この場にいながらこの場にいないという、主人公のあり方そのものを体現しているようにも見える。

 

だから、スクーターがどれほど前進しようが、カメラがどれだけ彼らに近づこうが、誕生会でどれほど音楽がリズムを刻もうが、すべては彼岸の景色以外のなにものにも見えない。今ここにはいないふたりが、はるかな時空の隔たりをもって彼ら自身を見守るようにして、我々は彼らを見守る。どんなことでも起こりうる“事前”の状態にあるようでいて、視線そのものはハッキリと“事後”の世界から照射されている。

それは慈しみに充ちているようにも感じられるが、それだけではない。むしろ、すべてが失われた後のすがすがしさの方が強い。そこで我々は気づくのだ。いったいこれから何が起こるのだろう、という疑問に吸い込まれてこの映画を見ていたのではなかった。むしろ、いったい何が起こってしまったのだろう、どうして世界はこんなことになってしまったのか、という取り返しの付かない事態をどうにかして受容しようという慚愧のようなものに駆られてのことだったのだ、と。

それが、この映画の美しさを生成している暴力的なものの正体だろう。

☆ ☆ ☆

 
『ひとつの歌』
10月13日(土)から渋谷・ユーロスペースにて
3週間限定レイトショー!
(C)2012年『ひとつの歌』製作委員会

公式サイト www.boid-newcinema.com/hitotsunouta/

スタジオ・ボイス特別号「MUSIC in CAR」>>
今日の連載コラム/音楽は、カーズ『錯乱のドライブ』です!

初出

2012.10.11 09:30 | FILMS