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『極私的メディア論』
森達也

文=

updated 12.07.2010

しんどくて面白いこと

文=川本ケン

例えば「どーでもいい話題」を取り上げてみると、テレビにおいて、親切めかした海老蔵バッシングが一瞬のうちに拡がったのはなぜなのか。それは、多くの一般人が、歌舞伎界のような「特権階級」の起こす騒動を好む下品な野次馬根性を持っているからなのか(そしてマス・メディアは、どこまでその欲望に寄り添わなければいけないのか)。逆に、「喧嘩相手」をただちに「犯人」として血祭りに上げるような報道姿勢があったとすると、それと比べていったいどちらが健全なのだろうか。
それにしても、「喧嘩相手」の立場に立ってみて、「良い弁護士」の同席なしで、今の日本の警察・検察の「公正な捜査」に我が身を委ねる気になるだろうか。そもそも、海老蔵に「思いやり深いご忠告」を発する「テレビ・コメンテーター」連にもお尋ねしたいが、物心つくかつかない児童を、「芸の世界」に放り込むのは「虐待」にあたらないのだろうか。その「虐待」が故に、「ねじ曲がった大人」に育ち上がったということにはならないのだろうか。その場合、「お行儀の悪い大人」は誰なのだろうか。

本書で展開される「メディア論」とは、ようするに「ほんの少し冷静になって考えてみようよ」ということであり、それは例えばワイド・ショーを眺めながら上記のようなことにつらつら思いをいたす、ということなのだと受け取った。こんな「どーでもいい」ことでも、「冷静になる」余地はいくらでもある。
だが当然のことながら、「メディア・リテラシー」に関する正しい解答は存在しない。どこまで行っても、認識論を出ることはないのだから。「疑う心を忘れず、伝えられる情報について、多角度から検討する癖をつけよう」という以外ないのだ。

それならば、「どうせ下らないことしかやってないんだから、テレビ(などのマス・メディア)なんか全部捨ててしまえばいいじゃん」という言葉も出てくるだろうし、実際マス・メディアには限定的にしか触れないという人間も多数存在するだろう。
しかし森達也の持つ視点において重要なのは、あくまで「メディアがその気になれば、確かにこの世界は今よりは良くなる」という信念を手放さないことなのだ。割り切れる事柄の中に存在する真実は少ない。むしろどこまでも拡がる中間地点で宙づりにされながら観察を続け、思考を続けることの方にこそ意味がある。というのは、森達也のドキュメンタリー作品『A』シリーズから幾多の著書に至るまでを貫く基本的な姿勢である。
それは終わりのない徒労のようにも感じられるかもしれないし、きわめて「しんどい」ことではあるのだが、なにしろ我が身の生命に関わることでもあるわけで、実のところ、世界をそのように受容・解読することほど、毎日を刺激に充ちた時間へと変える姿勢もない。それが証拠に、本書に収められた森達也の文章は、どんなに憤っているときでも、どこか陽性のテンションを失わないではないか。

『極私的メディア論』
森達也/創出版

□amazon情報
http://www.amazon.co.jp/dp/4904795075

初出

2010.12.07 08:00 | BOOKS