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デレク・シアンフランス監督
『ブルーバレンタイン』

アートにも文芸にも娯楽にも淫しない

文=

updated 04.26.2011

カメラを安定させ精神障害患者を排除したカサヴェテス映画といったところか。そのニオイは、わかりやすい音楽の使用法もあってだいぶ薄められているが、いくつかのシーンでハッキリと感じさせられた。重要なものを切り捨てるという否定的な意味で「スタイリッシュ化」と評され得るその選択は、わかりやすい特徴を撮影のレベルでも物語のレベルでも排除するということであり、そこを狙っているのだとしたら、実のところかなり冒険的なやり口でもある。だから、この映画の成立までに11年かかった聞かされても驚かない。むしろ成立したことの方が奇跡というべきだろう。

観客は、愛が生まれる瞬間と死ぬ瞬間をただ目撃することになる。それはこれ以上にないほどに凡庸な出来事であり、なにか大きな出来事が次の出来事を引き起こし、といった具合の連鎖によって輪郭の立ち上がる物語ですらない。だがこの作品は最初からその凡庸さを引きうけ、細部に至るまで徹底された精確さによって、それをあらすじではなく映画そのものとして普遍化して見せる。

男は善良で、妻と娘を愛している。女もまた誠実に人生を送ろうと努めている。だが、彼女の中の愛は死んでいる。男もそれを知っている。もしかしたら男の中のものもすでに死に絶えているのかもしれない。そういったことのすべてが、視線の交錯やささいな戯れのようにも見えるやりとり、あるいは、その時には歓喜の表現そのものであるように感じられたものが事後に眺めると真逆の事柄を体現している、といった細部の精緻な響き合いによって我々の中に静かに堆積してゆく。

例えば、生まれつつある愛に夢中のふたりが、ふざけあいとして後ろ向きに駆け出すシーンがある。だが、映画の時間の中ではすでに死につつある愛の姿を経験しつつある我々は、その危なっかしいアクションの危なっかしさの中には、あらかじめ死が刻印されていると感じないわけにはいかない。なにしろ、男は死を待つ老人の部屋から出ようとして、はじめて女の視線と出逢うことになり、いわばその老人が死去した後に残した空虚な空間を通して、彼女との結びつきが生まれることになるのであったのだから。

理想的なのは、どんな種類の物語が語られるのかということすら知らずに、それらのディテイルをただ見いだし受容してゆくことなのだが、敢えて例をいくつか挙げておくならばこんなところだろう。

とにかく、映画が始まってしばらくして、男の視線が女の視線とあの時交錯していたのだと理解される瞬間がやってくる。その瞬間を体験するだけで、この映画を見る価値は十分にある。そしてその時にようやく、アートにも文芸にも娯楽にも淫しないという戦いを、この映画が選択していたのだということに気づくだろう。

『ブルーバレンタイン』
配給:クロックワークス
新宿バルト9、TOHOシネマズシャンテ他全国ロードショー

□『ブルーバレンタイン』オフィシャルサイト
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http://www.b-valentine.com/

公開情報

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初出

2011.04.26 12:00 | FILMS