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ジャファール・パナヒ監督
『これは映画ではない』

実は恐るべき“映像”

文=

updated 09.28.2012

“これは映画ではない”。だからまずは、相も変わらず凡庸な現実(なにしろ東京では何を“表現”しても検挙されることはない。もちろん、その“何を”の中からは当然の了解事項として排除されるいくつかの主題はあるわけだが)を生きている人間としては、政治的理由から軟禁されているという“現実”を、その“現実”に依拠しながらある種のフェイク・ドキュメンタリーとして“映画化”できることそのものに、微かな羨望を覚えないと言ってしまってはウソになるだろう、と凡庸なことを記しておく。

なにしろこれは“映画ではない”のだから、イラン社会と監督の置かれた状況というコンテクストを排除したところでは、受容のしようがない。だがしかしここに映し出されているのは、“映画”ではなくその“現実”そのものなのだから、その点については何らの批判を受ける道理もない。

 

大型フラットスクリーンTVに自らの作品のDVDを映し出し、iPhoneを用い、MacBook Proでインターネットに接続し(だがもちろん検閲によって接続できるサイトは限られている)、イグアナのように見える巨大トカゲを飼い、東京の基準からすれば広大なと言うしかないマンションに住んでいる監督は、それでも(この作品の中では明確に語られないが)2009年の大統領選挙における改革派支持という政治的な(つまり宗教的な)理由から自宅軟禁の状態に置かれ、6年間の懲役と20年間の映画製作禁止という刑を科されようとしているのだという。誰が見ても笑ってしまう他ないお話ではないだろうか。パナヒ監督自身、自虐的な悲喜劇としてミニマルにまとめ上げて見せている。

ならばなぜそんなところ(イラン)からさっさと脱出してしまわないのか。脱出できるだけのコネクションと経済的手段は国内外にありあまるほど持っているだろうに。というのが観客の抱く第一の反応だろう。ほとんど、共依存関係の泥沼にはまり込んでいるDVカップルを見るようないらだちを覚えないだろうか。「なら逃げ出せよ!」と。そうして、そうした説得がムダであるのなら、「もう勝手にしろ」と言い放ちたくなるのが人情というものではないだろうか。

だがもちろん、そうしたことをすべて了解した上で、この“映像”は作り上げられている。どうしようもない悲喜劇の被害者と加害者は明確に分別できず、すべてが渾然一体となって現実を作り上げているのであり、己もまたその現実の一部である以上、そこを脱出することが解決ではなく、まさに精神医学的な治療だけが対処法なのだと、我々は理解することになるだろう。

 

では、安全圏から少ない情報に依拠し、ラディカルな結論(“やはりイスラム教はクソ”、とか)に飛びつくということをしない、現実的な効果の期待される対処法とは何なのだろうか。ここまで考えてくると、結局のところこの国(日本)との共依存関係の泥沼に陥っている我々もまた、同じ問題を抱えているということがわかり始める。

というところまで射程に入れて作られたのであるとすれば、恐るべき“映画”ではないか。

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『これは映画ではない』
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©Jafar Panahi and Mojtaba Mirtahmasb
http://www.eigadewanai.com/

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初出

2012.09.28 10:00 | FILMS